2018年5月3日木曜日

“重力にあらがうこと”(11)~雨のエトランゼ~


 映画『魔性の香り』(1985)と劇画【雨のエトランゼ】(1979)のラストシークエンスを比較して、主人公の男女の顔立ちが違うとか、高圧ナトリウムランプに擬したまばゆいオレンジ色の照明が原作の寂寂たる気配を損ねているとか、さらに言えば男とおんなの位置関係(平行か垂直か)といった表層の隆起なり陥没をいまは取り上げたいのではなく、ちょっと見えづらい奥まった箇所について書き留めようとしている。

 そもそも「劇画」を原作とした「映画」は数多くあるけれど、その総てに大なり小なりの異変が生れている。至極当然のことだ。表立って俳優を起用しないアニメーションであっても、紙面と同じ地平にとどまっては居られない。構図や筆致をどれだけ似せても、“得られるもの”と“喪われるもの”とは湯釜の泡のように湧き続けて止みはしない。

 間違い探しのようにして指差して囃(はや)したてるつもりは全然ないのであって、両者をテキストとして石井隆とは何であるか、ほんの少しだけ近づきたい一心だ。池田の『魔性の香り』は石井の原作劇画を敬って、絶対に世界観を壊すまいと心を砕いている。その上でふたつを並べたときに生じて見える違和感というのは、石井隆という作家を考える上で極めて重要な現象であり、私たちは貴重な対象群を幸運にも得たと言って差し支えない。

 正直言えば何がどう違うのか、不定形の靄(もや)のようなものが頭には浮んだが言葉に出来ずに過ごしてきた。『魔性の香り』よりも後年石井自らがメガホンを取った『ヌードの夜』(1993)の方が【雨のエトランゼ】に近似して感じられる不思議。構図も顛末も『魔性の香り』の方がそっくりなのに、何故か空隙を感じてしまう。365日を学究に捧げる専門家ならあっという間にたどり着けるのかもしれないし、思考能力の段差が問題であって単に自分が愚図なせいかもしれない。なんだろう、変だよな、あれで良かったのかな、と『魔性の香り』を観終わって俯いて歩いた日から三十年以上が経過したここ最近になって、ようやく自分の奥で整理されてきたという手応えがある。

 自分の思考と言葉で状況突破ができないならば、誰か識者に頼るより仕方がない。まず大島渚(おおしまなぎさ)の『忍者武芸帳』(1967)に関わる論争をひも解くことが先決と気付き、美術学校の図書館に忍びこんで研究本を手にしてから匍匐前進の速さが倍になった。承知の通り『忍者武芸帳』は白土三平(しらどさんぺい)の同名漫画【忍者武芸帳 影丸伝】(1959-62)を原作に大島が映画化したのだったが、通常の実写時代劇とは異なり、白土の描いた漫画のコマそのものを接写し、これを苦労して編集した後に俳優たちの声や効果音を加えて仕上げている。東北地方を襲った大飢饉を発端とした忍術ものであり、庶民の貧窮と領主への反撥、やがて起きる抗争と掃討、政争にどこまでも明け暮れる武士階層を交互に取り上げて物語の両輪としながら、その裏側で暗闘を強いられた忍者集団の生と死を鮮烈に描いている。

 原作である「漫画」を読んだ上で「映画」である『忍者武芸帳』を観ると、何とも言いようがないもどかしい気持ちが体内で巣食い始める。これは何だろうと思案に暮れる受け手は多いようであり、同様の居心地の悪さを私も覚えている。ああ、そうか、と今さらながら了解する。『魔性の香り』観賞後の消化不良感とこれはまったくよく似ている。

 この『忍者武芸帳』がもたらした違和感に関しては、これまで幾人もの識者が手をあげて一石を投じて来たらしいのだが、それら複数の論考を丁寧に収集し、連結し、強く展開させていったのが、三輪健太朗(みわけんたろう)の「マンガと映画 コマと時間の理論」(*1)であった。三輪はここで漫画とは時空の創造ではなく時間の創造が主軸であると喝破していて、まったく目から鱗というか、感激して目から涙になりかけた。

 白土が世間に提示したコマにどの程度の秒数を与えるかは読み手次第であり、ひとりひとりが異なる読書時間を歩んでいる。大島渚は大島なりの【忍者武芸帳 影丸伝】の時間があり、私たちには私たちなりのそれがある。時間の流れを固定し観客にそれを強制する映画という媒体に移し替えられた時、送り手大島と私たち観客の体内リズムのずれは乱流を生んで、目には見えないざらざらとした皮膜が銀幕全体を覆うようになる。読み終えてすぐに書棚に戻してしまったので正確な文章は覚えておらないのだけど、読後感を自分なりにまとめるとこんな内容であった。

 ここには漫画【忍者武芸帳 影丸伝】から映画『忍者武芸帳』という単体作品の変換がもたらした心理的影響にとどまらず、石井劇画の丹念な模写を試みた池田の『魔性の香り』が私たちへもたらした奇妙な当惑に対する答えがある。映画業界に原作者、脚本家として踏み出した石井を支え、共に世界を拓こうと腕を組んで歩んだ池田敏春が刻んだ映像はあくまでも池田の拍子であり、全観客とは言わないけれど、少なくとも私の拍子では無かった訳である。

 石井世界を劇中で再現し尽くしたそのときの池田の立場というのは、商業監督の域を越えたひとりの熱心な愛読者としてあったように思う。彼が刻んだのは拍子というより、自身の生理に直結した「鼓動」と書き表わす方が正解かもしれない。才人の彼と凡人の私を並べ書くことに池田はきっと何処かで笑っているに違いないが、彼が抱いた夢や想い、そして石井隆の創造世界への敬愛は同好の士として胸によく伝わるものがある。

(*1): 「マンガと映画 コマと時間の理論」 三輪健太朗 エヌティティ出版 2014




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