2018年5月3日木曜日

“重力にあらがうこと”(12)~雨のエトランゼ~


 紙面に並んだコマを順序よくフィルムに焼き付けただけでは、その劇画と向き合った際に懐胎する時間を正しく再現出来ない。血まなこになって編集作業にいそしんでも万人を納得させる時間配分にはならず、せいぜいがフィルムでの再現を目論んだ者の呼吸や鼓動、生理といったものに基づく個別の拍動しか紡(つむ)げない。『魔性の香り』(1985)と『忍者武芸帳』(1967)を例に引き、そんな事を先に書いた。

 個人的な話で迷惑だろうが、上と似た体験をかつて味わったことがある。学生の折りに小型のフィルム用カメラを使って何本か実験的な作品を作ろうと試みた。その時の記憶があればこそ、割合と自信を持ってこんな事を書きなぐっていられる。

 今のひとは各自専用の撮影用端末を持ち歩いており、恵まれているとしみじみと思う。その分まとまった金が毎月むしり取られている訳だから手放しで喜べないが、劇場映画に引けを取らない画質で、工夫すれば制限なく景色を撮り置ける状況というのは少し前までは想像すら出来なかった。身近にある数台の小型カメラと映写機を仲間うちで奪い合うようにして私たちはフィルムを回し、現像に出し、戻ってきた物を懸命に繋いで、夕暮れて暗くなった講堂に集まった。学生運動の埋め火が焦げ臭を漂わせており、警戒を弛めない学校側は騒動の拠点となる部室を取り上げたままにして若者に与えなかったのだ。なんだか妙に寂しい講堂の壁に、今にして思えばざらざらした砂絵みたいなものを映写しては愉しんだ。

 私はあまり人気のなかった映画監督(石井隆ではない)の特徴的なアングルや光を再現したものや、連続的なコマ割りが印象深い劇画作品(石井隆ではなかった)を『忍者武芸帳』と結果的によく似た手法で撮影して遊んでいたのだったが、無惨この上ない仕上がりとなってひどく消沈した。特に劇画のコマを繋いで映画にしようと試みたものは自身が感動したリズムの再生がまるで成されず、一向に胸に響いて来なかった。ようやくそれで映画製作の難しさが了解されて子どもっぽい憧憬は萎んでいったのだけど、今にして思えば、あの安手の黄白色の塗料でのっぺりと染まったコンクリート壁に映し出されていたものはまぎれもなく私の時間、いや、私にさえなっていない薄っぺらで未成熟の混迷した時間だったように思う。

 原作劇画を映画に落としこみ、観る者総てが納得する時間を編んでいくことのどれだけ困難であるかは、そんな訳で自然と分かるのだ。また、敬愛する劇画や漫画を自らの手で再現し、永久不滅を期待し得る媒体に定着させることの期待と昂揚が、大島や池田に満ち溢れていた事もだいたい想像がつく。映像を志す者が一度は通る関所ではなかろうか。

 さて、ここで私たちが追尾し続ける石井隆という作家の「劇画」と「映画」に思いを馳せてみると、両者が完全に地続きであることに驚かされる。ふん、おまえは何を言ってんだ、先程、映画には各人の素が定着しやすいって君は白状したばかりじゃないか。同じ人間が筆をカメラに持ち替えただけなら裾野をつないでも当然だろうよ。

 私が書き留めておきたいのはこういう事だ。石井の「劇画」に真向かって得られる時間(拍子と書いた方がしっくり来るか)は、作者石井隆が目論んだ頁構成とコマ割り、台詞の割り付け、擬音(オノマトペ)の選択によって石井に巧みに誘導されていることは間違いないのだが、あくまでも最終的には受け手である読者それぞれの時間(拍子)が生起しているのであって作者のそれではない、という事だ。そして、私とあなたは決定的に違う。同じこの言語を操り、似たような報道を見聞きする身であるかもしれないが、生活環境が異なり、これまでの人生の過ごし方が異なり、年齢にともなう恋情の堆積量に差がある。その辺は齢に関係ないか、きっと私よりあなたの方がずっとずっと豊富かもしれない。もしかしたらあなたは女性で私との間に性差も在るかもしれない。わたしが石井隆の劇画を読むときの受け止め方、速度やコマとの間合いは、あなたのそれとは違っているから、わたしの石井劇画の時間とあなたの石井劇画の時間は違って当然なのだ。

 だから、石井隆が自ら監督を担った「映画」作品を前にしたとき、石井隆の素の部分が反映され、私たちのではない特有の彼の時間(拍子)が突出していき、私たちの内部に蓄積された劇画空間を継承しなくなっても不思議はないのだし、わたしとあなたのどちらかが、または両方が、妙な違和感を覚えてもおかしくはないのである。ところが、確かにぶれがゼロではないけれど、石井劇画の愛読者の多くが石井映画を同じ地平であると認識し、堪能し、ごくんと呑み切って、石井隆だ、やっぱり石井隆だと悦んでしまう。当たり前に見えて、実はそこにとんでもない強靭な作家性が貫かれているのである。そんな作り手はどうだろう、世界を見渡しても他には見当たらないように思われる。

 本来自由奔放であるはずの読書体験において、石井劇画は時間を作者が支配している。圧倒的な描画と展開で固定し、読み手の自由にさせない。さらに作者のその時間が映画に持ち越される形で私たちを束縛するのだが、それが為されている事に多くの読み手が意識せず、驚かない。あまりにも自然だからだ。見えざる縄が世界を縛り、私たちの思考も身体も甘く柔らかく縛っている石井の演出力の特異な側面というのは、感嘆符をしたがえた畏怖や驚愕に十分に価する。

 ビデオキャプチャーという手法で切り取られた映画の一場面は、その多くが動きを停めて力を急速に失っていくのだけれど、石井作品においては例外である。切り取られた一場面は劇画の記憶と直ぐに連結し、かつて劇画で養われた時間(拍子)が程無く附帯されていくから、鮮度と動きを落とすことがない。時には急速に力を盛り返して私たちを圧倒することさえある。この特質もまた唯一石井隆のものだ。



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