2018年5月4日金曜日

“重力にあらがうこと”(13)~雨のエトランゼ~


 漫画を読むという体験において、読み手のそれぞれに固有の時間流が発生していると説いた三輪健太朗の「マンガと映画 コマと時間の理論」。この論文の起爆剤になったのが加藤幹郎(かとうみきろう)の「愛の時間 いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」という一文だった。正確に言えばその中の「島村ジョーの墜落」と題された一節である。

 島村ジョーとは少年漫画【サイボーグ009】(1964-1992未完)の主人公であるが、物語の冒頭から間もない第5部「009誕生」内の描写に加藤は目を瞠(みは)り、恋文めいた柔らかな口調で漫画という表現手段の秘密に迫っている。黒い幽霊と称する結社に拉致され半人半機械に改造されたジョーは、深い眠りから覚醒した途端に荒々しい性能試験にさらされる。巨大ロボットによる鉄拳と銃撃、戦車による砲撃が続き、その後、急襲したジェット機に激突されそうになるのだったが、すんでのところで機体に取り付くことが出来たのだった。ジェット機は上昇と下降をめまぐるしく重ねた後に、海原にむけて一直線に落ちていく。

 作者の石森章太郎(いしもりしょうたろう 後に石ノ森に改名)はここで一頁をまるまる使って墜落していく飛行機を描いたのだが、一切の擬音を添えずに静謐な空間を演出してみせた。直前までジェット機はグワーァッ、ゴォーッ、グイーン、キーン、ギュアーッと轟音を発し続け、急転回におののいたジョーも「わああ」と大声で絶叫していたから、それら騒音の密集から一瞬後に示されたこの無音空間は劇的効果が充溢して、当時の若い読者のこころを多いに揺さぶったものと思われる。

 加藤はこの「もっとも美しい場面のひとつ」について、次のように綴っている。少し長くなるが書き写してみよう。既に勘付いた人もいるだろうが、わたしはこの加藤の言葉を読み進めながら石井の【雨のエトランゼ】(1979)をあざやかに想起し、同様の「愛の時間」が作動していることに気付いた。

「さながら蜃気楼のように、ジェット機は不動のまま落下をつづける。その落下をささえる白い大気と真下にひろがる海の広大さが、このコマに叙情的緊張感と構造的客観性をあたえている。」「このひとコマを満たす無時間性あるいは超時間性にわたしは愕然とする。そのジェット機はわたしが次の頁をめくるまで永遠に落下しつづける。この画面は静止している(ここには運動をあらわす線も、墜落にともなう効果音も描きこまれていない)。そして凛とした静寂があたりをつつみこんでいる。」(*1)

「しかし、これは映画のストップモーションとはまったく異質である。おそるべき速度で墜落するジェット機をとらえた画面ではあるが、これは切断された時間の一片をしめすものではない。ここで運動は静止しているわけではない。つまりこのジェット機は(わたしがこのコマを凝視しつづけるかぎりにおいて)無限に永遠に落下しつづけるのだ。が、この下降運動に終わりがないわけではない。わたしがこのコマを見つめることをやめて次の頁をひらけばそれは終わる。このジェット機は、背景にひろがる蒼空=余白のなかで一瞬、宙吊りになっているのでは断じてない。矛盾をおしていえば、それは落下しつづける静止状態なのである。」(*2)

「この墜落・落下はわたしの視線とともに持続する。島村ジョーをのせたジェット機はわたしの視線によってわたしの視線とともに落下をつづける。ここに充実した時間の経験がある。」「そもそも時間とは、そしてとりわけ愛の時間とは、いつもなにか他のものを介して、そしてそれとともに語られるしかない。時間をただそれだけでそれ自体として語ろうとすることはなにかしらおろかしいことのようにおもえる。時間について考えることは、そのまま時間と同義であるような漫画について語ることである。漫画を語ることが時間の愛と愛の時間を語ることなのである。」「ジョーの墜落は漫画史にあってまったく画期的なものだった。石森章太郎はこのひとコマによって、漫画がいかに時間のために、時間とともに存在するかをしめしたのである。」(*3)

 数多くの漫画のコマを目で追いながら作者と読み手の間に張られた糸状のものを漠然と感じていたが、何と言葉で表現してよいか分からずにいた。「愛の時間」とはかなり豪胆な表現ではあるが、聞かされて数分後にはもう過剰とは全然思わない。しきりに頷かされてならなかった。私たちはさながら愛するひとのように漫画を見つめ、追いかけ、熱いまなざしを注いで撫で回してきたのだ。「愛の時間」の生成は漫画を論じた文章なかで屈指の指摘となっている。

 さて、ジョーがしがみついたまま海原に落下した飛行機はどうなったかと言えば、波しぶきを上げて海底まで突き進み、機首をブスと砂利に突き刺したあとで横転する。ジョーは水中でも生存可能であり、暗視能力をそなえた目で前後を見渡した後で海上へと浮上するのだった。永遠に続くかと思われた落下は終息して、ジョーはそれから死ねない身体として生き続けることになる。

 対して石井の【雨のエトランゼ】はどうかといえば、まさしく「愛の時間」を読者は得ているが、それは興奮とも安息とも無縁の性格だった。石井隆が同郷の石森章太郎を意識してインタビュウ中で言及したことはなかったように思うから、その意味でふたつの「愛の時間」は無関係であるけれど、稀に見る美しさを文中に宿して漫画批評の至論とも言うべき加藤の上の記述をそのまま無作法に借用してしまえば、【雨のエトランゼ】のラストシークエンスの壮絶さと、石井隆の編み続ける物語の輪郭と色彩がより明瞭になるのではなかろうか。

 私たちは暗然として愛人の落下する様子を見守ることになる。しかし彼女の身体は血しぶきを上げて路面まで突き進むことはなく、頭をボコとマンホールに突き当てて横転することもなかった。ト書きは「窓の外でコンクリートに弾ける鈍い雨音」を報せるが、わたしたちの視線は行き場を失った形である。これにより「愛の時間」は終息の機会を奪われた。

 すなわち、【雨のエトランゼ】のおんなは永遠に落下しつづけるのである。おそるべき速度で墜落するおんなをとらえた画面ではあるが、これは切断された時間の一片をしめすものではない。ここで運動は静止しているわけではない。つまり矛盾をおしていえば、それは落下しつづける静止状態なのである。このおんなは無限に永遠に落下しつづけるのだ。ここでは時間と共に重力も支配されていて、それより高度を下げることなく、それでいてどこまでも墜ち続ける。(*4)

 【雨のエトランゼ】を徹底再現していながら違和感を抱かざるを得なかった『魔性の香り』(1985)であったが、この重力と時間の支配が為されておらなかった点が原因として大きい。おんなの姿は地上目線ではどんどん大きく、屋上目線ではどんどん小さくなっていくが、それが示唆するのはいつまでも何処までも落下し続ける存在ではなく、上層階から下層階に限った墜落であり、物理的限界が自ずと連想されて観客の気持ちに決着が付くのだ。ドラマの終焉を十分に予測させる絵柄となっていた事が両者を結果的に引き裂いた、と言えるだろう。

 若々しい容姿を保って世界平和の実現のために奮闘するサイボーグ戦士とは違い、生と死の境界面で痙攣するか茫洋と佇むか、そんなすれすれの物語を行き来するのが石井世界の十八番であるから、事はさらに深刻である。つまり【雨のエトランゼ】のおんなは落下し続けるだけではなく、無限に永遠に死に続けている、そのように言い換えることが可能となる。

 この点は石井の創作する多くのキャラクターに該当する。脈を取ったり新聞記事に載って臨終が確認されたのは『GONIN』(1995)の荒くれ達であったり、【女高生ナイトティーチャー】(1983)のような若いおんなだったり、実は指追って数えるぐらいしかいない。慈愛ゆえか、より残忍な顛末を手探る劇作家の業なのかは分からないが、石井は死線へと彼の分身を追いやりながらも浄土へ導くことなく話を断絶し、宙ぶらりんの死に体にしていく傾向がある。彼らは無限に死に続けている。

 石井隆は何を言いたいのだろう。直接そのような言葉を聞いたことは無いのだが、石井は生きることは死に続けること、墜ち続けながらも盛んに息をし、互いの目を覗きこみ、愛の時間を紡ぐことだ、と作品を通じて必死に語っているように思う。絶望というより透徹したまなざしで世界を創造し続け、私たちに向け彼なりの受容の尺度を発信している。

 社会や環境との軋轢、心身の不調と対峙したとき、私たちは悄然とし時に気息奄奄(えんえん)となるけれど、誰でも同じだよ、実相は皆がいっしょだよ、それでも気持ちを入れ替えて生きていくんだよ、名美や村木をご覧よ、と静かに語ってくれている。

(*1):「マンガ批評宣言」 編纂 米沢嘉博 亜紀書房 1987 所収
「愛の時間 いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」 加藤幹郎 27頁
(*2): 同 27‐28頁
(*3): 同 28頁
(*4):ダンテの「神曲」で死者たちは劫罰に身悶えして苦しむのだったが、その第二圏の場景が目に浮かぶ。愛欲の罪を負い、罰として暴風により空中に巻き上げられ、そのまま気の遠くなる年数を翻弄され続ける永遠の墜落者の姿だ。あの哀しい人間の群れと【雨のエトランゼ】は通底する。






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