2018年4月30日月曜日

“重力にあらがうこと”(10)~雨のエトランゼ~


 どうすれば「వ(バ)」の字となって人は墜落するのか、かつてこれを解き明かそうとした作品があった。『魔性の香り』(1985)は結城昌治(ゆうきしょうじ)の同名小説の映画化ではあったが、【雨のエトランゼ】(1979)の終幕を巧みに取り込んだ構成になっている。

 演出した池田敏春(いけだとしはる)は石井のインタビュウによく顔を覗かせており、石井劇画について造詣が深いだけでなく、石井の脚本を映像化したものには秀作が多かった。『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)、『死霊の罠』(1988)、『ちぎれた愛の殺人』(1993)には石井劇画の光と影、湿度や匂いを再現するという目標を越えた、共に手を組み、さらに突き進んで地平のその先を開拓しようとする気構えが感じ取れ、私たち石井劇画の愛読者だけでなく映画愛好者を大いに喜ばせた。雨や鮮血などの液体描写はもとより、女性の姿態への粘り強い接写を惜しまず、それがいつしか卑俗さを押しやり聖性を附帯するまでになる。具象にとことん執着し続ける真摯さ、頑固さは石井と共通する生理と傾向が感じられ、まさに石井とは盟友の仲の映画監督であった。

 池田が申し出たのか、それとも石井が挑戦的に綴ったものだったか、『魔性の香り』の終幕は脚本段階から【雨のエトランゼ】のコマの再現を目指す。秋子(天地真理)というおんなは、小さな出版社をやっている江坂(ジョニー大倉)と最後の夜を過ごし、トイレに行くと言った後で雨降る屋上から投身する。【雨のエトランゼ】と違うのは、異常を察知した男が屋上まで駆け上がり、最期の視線の交錯を階下ではなく屋上で為している点だ。

 おんなはパラペットの上に四足となって牝猫のように佇み、そのままゆっくりと反転していくのだった。これにより【雨のエトランゼ】同様の「వ(バ)」の字型姿勢を保っておんなは落下していく。カメラはまず地上から、次いで屋上からおんなの姿を捉える。建屋と体軸を平行にして仰向けになった様子がはっきりと写し撮られていた。

 この映画をどこで最初に観たのだったか。封切時ではなく二番館あたりだったと思うが、かなり混乱をした記憶がある。結城の原作は読んでいたが、石井の脚本が掲載されていた「月間シナリオ」1986年2月号は買いそびれていた。徐々に【雨のエトランゼ】に収斂されていく銀幕を観ながら、少し居心地が悪くなった。【雨のエトランゼ】とは違い、なるほど墜ちる寸前に両者は互いを見合いはしたが、落下途中に視線を交わすことが叶わずに闇のなかどんどん小さくなって消えていくおんなの孤影を見つめながら、これで良いのだろうか、愛情と野心溢れる再現ながら何かボタンの掛け違いをしたように思えて、俯いて劇場を後にした。

 【雨のエトランゼ】と比べて『魔性の香り』が劣っているとか、到達し得ていないとか言いたいのではない。懸命に考えた上での結論であろうから、あれはあれで良かったように考えている。しかしながら「వ(バ)」がどうして生まれたか、あれだけ丁寧に映像化してもらい、あの夜はこうしたんだよ、こうだったはずだよと手取り足取り教わりながらも、分からない分からないと悶々と今日まで自問自答を重ねて来た理由もあるのであって、それは『魔性の香り』に今ひとつ説得力が無いからだ。男の立ち姿が屋上に現れ、振り返ったおんながバランスを崩したために落下が後押しされたような描かれ方であって、それは『魔性の香り』という話を確かに完結させてはいるが、そうして【雨のエトランゼ】の落下姿勢を上手になぞってはみせるが、【雨のエトランゼ】の終幕の数コマの衝撃と謎を十分に解き明かしてはいない。

 【雨のエトランゼ】において屋上に男は昇っていかず、おんなは投身をひとりで完遂する必要があったのだが、はたしてあのような細い塀の上の四足猫立ちと貧血卒倒の体の妙な動作を実際したものだろうか。死に向かう者は地上を見つめる動作が必要があり、立つにしても座るにしても、眼下の景色に正対する格好でまとまった時間を持つのが自然と思われる。

 今このようにして【雨のエトランゼ】について深く思案を進めていると、【雨のエトランゼ】から『魔性の香り』へと移り変わるときに、それはすなわち、「劇画」から「映画」へと移り変わるときと言い替える事が出来そうだが、“得られるもの”と“喪われるもの”が確実にあるのであって、その“喪われるもの”というのが石井劇画の特性であり、もしかしたら石井世界の核心ではないか、という漠然たる考えを抱えている。







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