2018年4月29日日曜日

“重力にあらがうこと”(9)~雨のエトランゼ~


 屋上からの主人公の投身で話が突如途絶える【雨のエトランゼ】(1979)だが、一頁をまるまる割いて石井が描いた入魂の面差しに圧倒され、読み手のほとんどは首から下の部分、おんなの四肢や胴体の傾き具合について言及することはない。当たり前といえば当たり前の話だ。それは大筋と無関係だからだ。これから書き連ねるのはその些細な部分についてであり、常人の目からは奇怪に映るかもしれない。

 四十年ほども前の劇画に今さらあれこれ言及することは、墓場を荒らして棺桶をまさぐり、遺骸を抱きしめるがごとき狂人沙汰に相違ない。ふと思い出したのだけど、若い時分に自宅のテレビジョンで洋画劇場を眺めていて、その作品が何だったか明確には思い出せないが、『オードリー・ローズ』だったか『リーインカーネーション』だったか、それとも『チェンジリング』(*1)かもしれないけれど、怖いというよりも妙に切ない幽霊譚をしみじみと観終わった後で、締め言葉を言いに現れた評論家が「柳の下の幽霊を捕まえてきて手術台で解剖しているみたいだ」と笑いながら語ったのが強く印象に残っている。

 なんとなく腑に落ちず、それで覚えていたのだった。霊魂を寝台に手招きし、横たえ、真摯に向き合ってその想いや正体を知ろうという行為のどこが可笑しいのか。死者や彼方に去ったものに気持ちを馳せることは魂のもっとも繊細な活動であり、何よりも荘厳な瞬間と思う。枝葉末節にこだわって本質を語らない事は有害でさえあって、作者からしたら相当に迷惑な行為かもしれないが、そこまで向き合わないと到達しない領域というのがある。石井隆という多層な作り手と向き合う為には、この程度の執着は不可避と思うがどうだろう。

 さて、名美というおんなが墜落する一瞬の四肢や胴体の傾き具合はと言えば、背中を地上に向け、両手両足を天に差し出すような具合だ。キリル文字の「ツェー」と発音するらしい「Ц」という文字に似ているだろうか。いや、背中はもう少し丸まり首をぐっと持ち上げている様子は、頭の位置こそ左右反対になってしまうが、テルグ文字でこちらは「バ」と発するらしい「వ」にそっくりである。前述の【女高生ナイトティーチャー】(1983)と似て見えるかもしれないが、体軸の向きがあれと九十度違っている。【女高生ナイトティーチャー】のおんなの身体はビルディングの側壁に対して直角で、両足、両手をを広げて落ちていく。大の字を引っくり返した感じだ。キリル文字で表わせば「ゥ」と発音するらしい「Ұ」だろうか。対して【雨のエトランゼ】のおんなは体軸を建屋側壁に平行にして降下し、男のいる編集部を横目で眺めようとする。

 この「వ(バ)」という体勢は一体どのようにして生れたものだろう。彼女はいかにして屋上から跳んだのか。考え出すとこれは相当に“不自然な”かたちである。先述のように人体の落下は宙に浮く直前の動作に左右される。身体のどこかを支点にして落ち始めれば、円運動の慣性を従えた人体はゆっくりと回転をしながら落下していく。インドのジャイプルで起きた痛ましい事故などがこれに当たる。一方、意を決して足先から飛び込めば、今度は糸引く雨のように一直線に墜ち続け、足首あたりから地上へと激突する。こちらは東北の街に位置する病院スタッフの論文にあったような、主に自殺行為にともなって見受けられる形である。その理屈でいえば、【雨のエトランゼ】の「వ(バ)」の字型形態というのは、まったくもって奇妙に思われる。

 あのような形になるには金網を慎重に乗り越え、屋上の縁をぐるりと欄干状に囲む、専門用語ではパラペットと言うらしいコンクリートの段差に腰をおろした後で、そこに横たわり、それも腹を下にしてその狭いへりに俯(うつぶ)す事が前提になりはしないか。その上で焼き魚を静かにひっくり返すようにして反転し、けれど回転で慣性が生じないようにゆっくりゆっくり落ちなければ「వ(バ)」にならないのではないか。

 それとも『幸せになるための5秒間』(*2)という映画で描かれたような、長い歩み板を準備して屋上からぐっと突き出す方法だろうか。板の上をそろそろと歩いていき、建屋と平行に落ちることを目論んでゆるゆると腰をかがめていき、歩み板に座り、居眠りして椅子からずり落ちるようにして臀部から地上へ向かうことになれば「వ(バ)」に近い形になるかもしれない。これは冗談だ、そんな事はどう考えたって起こり得ない景色だ。

 【雨のエトランゼ】の製作に当たって選ばれ、こころよく石井の取材に応じた雑誌編集部が当時あった雑居ビルは、どうやら同じ場処に現在も建っており、特徴的な窓枠で直ぐにそれだと分かるのだけど、これは4階建てである。もちろん、現場に足を踏み入れてみたり、身近な場処で撮影された映像作品を観れば分かるように、映画でも漫画でも巧妙に継ぎ足された集合体である訳だし、そもそも石井は【雨のエトランゼ】でおんなが飛び降りる建屋の外観を作品内に描き込んでいない。だから、おんなが飛び降りた高度の正確なところは不明だ。

 内部の雑然とした「中小出版社」の風景だけを借用し、物語上の想定では数十階建の高層建築であったものだろうか。エッフェル塔ほども高い場処からおんなは跳び、スカイダイビングの熟練者よろしくコートを広げ、風圧をばたばたと受け止め、草むらの小動物を狙う鳶(とび)のように悠々と体勢を整えながら「వ(バ)」の形へと徐々に移ったものだろうか。これも有り得ない。

 低空飛行を余儀なくされながらも歯を食いしばり、清淡な日々を暮らす市井の男女がふとした拍子に愛憎に打ち負かされ、異常燃焼して自身さえ黒こげになりそうな、それとも凍えて手足がもがれるような時間を過ごすというのが石井隆の人情譚(刃傷譚)の基本であるから、おんなにそんな立派な高度は与えられなかったように思う。それでは、いったいどうやって「వ(バ)」になれたのか。

 笑いや舌打ちが聞こえて来そうだ。たかが漫画の数コマに大袈裟ではないか。書店やコンビニエンスストアに並ぶ雑誌を開けば、重力を無視して躍動する肉体が其処かしこに乱舞しているではないか。漫画とはその誕生の早い時期から、特に手塚治虫が出現し、ロケット工学が急速に発展し、ロボットやサイボーグが跋扈するようになったあたりから、重力から解放された大跳躍や自由自在の飛翔が売り物になっている。そうだ、石井隆は化け猫映画が好きじゃん、名美って化け猫なんじゃないの。猫が落下する途中に身体をひねって姿勢を変えるように、ひょいひょいクルリと回ったのじゃないか。【雨のエトランゼ】のおんなは漫画に所属するわけだから、何が起きても変じゃないでしょ、そんなに堅苦しく考えるべきではないだろうよ。

 普通ならそこ止まりだし、別にそれでも良いよ、と石井は例によって目を細めて微笑むに決まっているが、「漫画」にのみ帰結させるのではなく、「映画」や「写真」、「絵画」や「実体験」に照らし合わせるべきが石井劇画である以上、私たちはもう少しだけ真顔で臨んで別の結論を導く必要がありそうだ。

 この「వ(バ)」は石井の創意が溢れ出た瞬間と捉えて良いように思われる。それは適当とか偶然でそうなったのではなく、確信犯的な奇蹟の瞬間である。後年の映画作品で銀幕に映し出され、私たちの度胆を抜いた一瞬の“不自然さ”が既にこのときから作動していたと捉えたいところだ。『死んでもいい』(1992)で大竹しのぶに天空方向から差し出されるライター、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)で佐藤寛子に降りそそいだ雲母、『甘い鞭』(2013)の終幕に壇蜜の右手首をつかんだ何者かの腕といった奇蹟とも悪夢とも区別出来ないものが紙面に舞い降りている。

 私たちはこれら石井映画の“不自然さ”と同じものを以前から【雨のエトランゼ】のラストシーンに嗅ぎ取っていて、それで時どき、昏い電燈の下に彼の本を引き寄せているのではなかったか。死の後始末を寺社に委ね、墓石に名を刻んで多くの人が去っていくが、魂の部分を手引きする役目までは求めず、良く言えば世界一自由な、悪く言えば寄る辺なき国民の我々にとって、石井の単行本は聖書のように妖しい無視し得ない存在感を書棚の隅から放っている。

(*1):
『オードリー・ローズAudrey Rose』  監督 ロバート・ワイズ 1977 
『リーインカーネーション The Reincarnation of Peter Proud』  監督 ジョン・リー・トンプソン 1975
『チェンジリング The Changeling』  監督 ピーター・メダック1980
(*2):『幸せになるための5秒間 A Long Way Down』 監督 パスカル・ショメイユ 2014



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