2018年4月21日土曜日

“重力にあらがうこと”(6)~雨のエトランゼ~


 【雨のエトランゼ】(1979)という話を送り手が要約したらどうなるか、連載の折に頁の縁に載った「あらすじ」を書き写してみよう。

 「仁科恵子=名美、マイナー誌編集長村木、元カメラマンの事業家川島の三角関係は3年越しである。はじめ村木、次は川島と関係した名美は過去の醜聞写真を週刊誌に暴露され、男たちのエゴに苦悩した。思いあまって訪ね激しく求愛した………。」(*1)

 随分と地味な印象を受ける。実際【雨のエトランゼ】は過剰な程も生真面目な恋愛事情を描いている。人物の数は片手に絞り込まれ、また、話題はヒロインの動向に偏るから、読んでいて膠着を覚える時間がどちらかと言えば多い。カウンターに並んでグラスをあおるだけに終始してみたり、ささやかなアパートの一室で肩を寄せ、これまで撮り溜めてきた風景写真を眺めるのみの時間もあるのであって、はげしく身体を重ねる逢瀬ばかりではない。

 色模様とは大概がそんなものだ。渦中にいる当事者は今この時を激流下りと捉えるが、第三者から見た彼らは蜘蛛の巣に捕えられ、時おり震える蜻蛉(とんぼ)か蝶々に過ぎない。じたばた身悶えする彼らの横を、風鈴を奏でるほどの幽かな風になって時間なり歳月が渡っていく。三角関係と音の響きだけは物々しいが【雨のエトランゼ】を貫く硬さは現実とそっくりであって、事態はそうそう転調しない。

 しかし、最後の最後になって石井は劇の流れを劇的に加速させるのだった。雨の降りしきる夜、男だけ独り残った編集室におんなが再訪し、ふたりは海の底で身を寄せ合うような穏静で色彩のない時間を過ごす。編集室は雑居ビルの一角を間借りしており、今から40年ほども前の世相がありありと忠実に写し描かれているから、ラジオ付カセットレコーダーが机わきに置かれてあり、男の愛聴歌だろうか、ブルースがそこから浸み出でて室内を満たしていく。

 あの当時、誰の傍らにも砂に埋もれた深海魚の骨に似てごつごつした装いの、似たような機械が置かれていた。テレビのイヤホンジャックとコードで繋いではポーズボタンを熱心に操作し、歌謡曲や吹き替え映画を録音しては飽かずにそれを聞き直した。音質は二の次で、モノラル機能でも十分に嬉しかった覚えがある。そうやって手間暇かけて採取した音楽や声には夢見がちで漠然とした不安に苛まれた若い気持ちをよく支え、鼓舞する調べがそなわっていた。

 【雨のエトランゼ】に話を戻せば、狂おしい房事が終息し、鈍麻した身体の芯をギブスのごとき淡い快感の名残りが包んでいく。切実な、余韻にみちた指先の愛撫へと移行するのだけれど、おもむろにおんなは小用に行くと告げて、廊下を隔てる入り口へと向かうのだった。トイレはドアを出て階段の脇あたりにあるのだったが、場所はもう知っている、と、男の案内をやんわりと制したおんなは「じゃあね」と軽く手を振ってそのまま扉を閉ざしてしまう。

 間もなくおんなは階段を伝って闇が支配する屋上へと至り、終にはそこから投身するのだった。ヒロインの自死という容赦ない結末である。それで【雨のエトランゼ】は幕引きとなる。憤慨された人がいたなら謝るしかないが、優れた小説や映画、漫画といったものは結末を先に聞かされたとしても魅力を減じることはないと信じる。まあ、この通りだ、無粋者で御免なさい。

 一応は頭を下げたので先を続ければ、おんなは自ら生命を絶つべく全身を宙に浮かせ、雑居ビルの外壁に沿って地上へと墜ちていくのだったが、階下の編集室に残る男の眼前を雨滴が伝う窓ガラス越しにおんなの姿が一瞬だけ捉えられ、ふたりの視線が交差して、そこで両者は永別する。

 自ら死を選んだり、事故なり事件に遭遇して頓死したりえらく傷つく様を目の当たりにすると、それが赤の他人であっても私たちをひどく動揺するし、残像に生涯に渡り縛られる。悲哀を覚えてかれら傷付く者、死にゆく者の姿態を脳裏に刻む行為は、本能の為す一種の焼き鏝(ごて)だ。個体の生き残りのため、引いては子孫繁栄のための知恵を授かるたいせつな時間である。私たちはその都度、言葉では形容しがたい学びの手触りを得て、唇をかみしめ青ざめながら懊悩する。

 【雨のエトランゼ】を初めて読んで以来、おんなの死の全体像が頭蓋骨の裏に焼き付いてしまった。いや、正確には墜落中の姿である。地上との衝突後の様子を作者は私たちに明示することなく、ただただ墜ちていく瞬間だけを示している。もはや取り返しのつかない状況であることを示す引きの構図で描かれた見開きと、墜ちゆくおんなの顔をアップで、こちらはまるごと一頁を使って描かれたものと、そこに導く小さな断片、実質三コマがおんなの最期をつたえる総てだ。ここを訪れる人の多くも上に紹介した墜落中のおんなの表情とまなざしに打ちのめされ、おそらく青ざめた口だろう。

 千切れる程も花弁が開いたまばゆい性愛の刻(とき)だけが特殊な躍動や熱気を地上にもたらすと信じる読み手が、写実に徹する石井劇画にこれを探し求め、肉のたわみや下着の皺、汗や体液のしたたりを目で追っていった末に突如として死の断崖が出現する。私たちは目を疑う余裕すら与えられず、崖下へと突き落とされてしまった。前段が緩慢であったのも石井の計算であったのか、急激な大気の変化に打ち震えて心底おののいた。

 人体の衝突で地面が大きな音を立てるのを聞き、階段を下って彼女が横たわるのを茫然と見下ろす男なのだったが、石井は視る者、視られる者双方のその刹那から目をそらすようにして描こうとせず、「窓の外で音がした コンクリートに 名美の弾ける 鈍い雨音がした」(*2)という短いト書きで状況を伝えるに止めた。雨が路面に作る細かな波紋を丁寧に描き上げ、うつむくようにして筆は置かれた。

 愛しい相手の全消滅、肉と魂両面の斬首、追跡対象を奪われて暴れ狂う足裏と手のひら。恋路の果てに誰もがたどり着くそんな惨状が、地面に横たわる遺体や立ちすくむ側の萎んだ背中といったものの「不在」、紙面からの「隠蔽」で強調された。否応なく終結を意識させられ、目玉をえぐられたような閃光を覚えた。いま読んでもこの【雨のエトランゼ】の最終数頁は秀抜であり、穿たれた喪失感の深さ、断面積の広さにつき、漫画史を見渡して比肩し得る作品が思い浮ばない。こんな非情な絵面は見かけない。

 「不在や隠蔽されたものを描く」という、何も知らない人が字面だけをたどれば矛盾を覚えるに違いない特異な手法を石井は自作に好んで潜ませるところがあり、後年の映画作品『ヌード夜』(1993)でも結実し、力技を発揮している。その点からも【雨のエトランゼ】の幕引きは無視出来ぬ道標と言うか、それとも墓標と呼ぶべきか、石井の作歴と読み手の脳裏にきっちりと佇立して脈打ち続ける。そのことに異論をはさむ者はたぶん誰もいないのではないか。

 最初の単行本、そして完全版での読了。あれから長い年月が過ぎて、幾度も【雨のエトランゼ】を読み返す夜を越えて来たが、それと並行して私たちは映画作家としての石井隆を目撃し、作風やタッチについて数多くの事を学んでいる。その上で再度【雨のエトランゼ】を、特にその終幕部を読み直して分かるのは、不在、空隙は墜落後だけでなく墜落前にも作られていて、ほら、ここにも妙な間が在るよね、気付いたかい、と作者が手招いている点だ。

 一体全体あの空白域にどんな景色があったものだろう。一度思考のドライヴが始まるとこれがなかなか凄絶であって、【雨のエトランゼ】の憎愛の密度はいよいよ増していくのだった。魂を削る覚悟でレイアウト組んだ、石井隆という作り手の執心に今更ながら気付かされ、ちょっとした痛みが走る。

(*1):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版 2000 256頁
(*2):  同  138頁 

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