2014年2月27日木曜日

“最後に名美になる”~『甘い鞭』の涙~



 全身をどす黒い鮮血に染め上げ、身も世もなく慟哭するおんなのすがたが『甘い鞭』(2013)の終幕には収められている。これと似たものを、私たち石井隆の世界を注視する者はあまり知らない。石井の劇画に、そして映画に刃傷沙汰(にんじょうざた)は付き物であるから、紅蓮の景色をいくつか思い描くことはたやすいのだけど、あれ等は劇の途上に大概出現し、その後はバスルームのシャワーや雨に清められ、のっぺりして静かな白い空間に戻される流れだった。

 ぶしゅっと血が噴き上がり、肉体なり顔を飛びかかってべっとりと濡らして間もなく画面は暗転し、加害者には氷結した穴ぐらめいた時間が用意されたのではなかったか。ずるずると果てなく血をしたたらせて歩くおんなの様子は、それだけで衝撃があった。重い波となって押し寄せ、身体の芯をゆさゆさと揺らした。

 血のりの量にも大層驚いたが、なによりも抑えきれぬ嗚咽に腹をへこませ、背を丸め、唇を歪めて泣き続ける様子というのにどうしようもなく心が騒いだ。

 直前に刺して転がる死骸に対して申し訳なく感じるのか、壇蜜演じるおんなは前かがみとなり、鮮血に染まった床面に向けてわあわあと泣き沈みながら、一歩また一歩とかろうじて進んでいく。後悔の念にはげしく苛まれ、自己破壊を希求する方向へとどんどん押し出されていくおんなと銀幕越しに対峙して、すっかり伝染してもらい泣きしながらも、この泣き方は“名美泣き”ではない、とも感じたのだった。原作本(大石圭)とそこに描かれた奈緒子という存在を、演出者石井隆が解析した時間とも一瞬思った。

 号泣を許され“名美に成らざる者”の刻印を押された奈緒子は、現実と過去、正気と狂気を混濁させた妖しい時間を過ごしているのであるが、不意の出来事が彼女を襲い、針の振り切った時空へと連れ去っていくところで『甘い鞭』は幕を下ろす。留意すべきは、その刹那、強い衝撃がおんなと私たちを同時に震撼させる訳なのだが、それにより水音高く流れていた情動の川筋が爆砕され、生じた大量の岩石でぷっつりと堰き止められる点だろう。圧倒され、おんなは泣くことを忘れている。ここでも、やはり涙は隠蔽されるのである。

 『甘い鞭』は『死んでもいい』(1992)に似た構造を持ち、“名美に成らざる者”を“名美的な者”、つまりは周回を重ねた者へと導く過程を描く作品とも言えるだろう。名美として生きることは地獄そのものに他ならないのだが、石井は『甘い鞭』の奈緒子を名美に転生させてあえて地獄に引き込み、おそらくは“本来辿り着くべき地平”へと横滑りさせたのだ。涙を奪うことで、土壇場でのぎりぎりの救済を、緊急避難を石井は果たそうとする。

 生業と呼ばれる以上の、ひりつくような途方もない思念にあふれた仕事であり、畏怖という言葉はこういう時に使うのだろうかとぼんやりした頭で考えている。

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