2014年2月27日木曜日

“名美に成らざる者” ~石井世界の涙③~


 『死んでもいい』(1992)の終盤に見られる大竹しのぶの、幼子(おさなご)にも似た大泣き。実はこれに似たものが石井隆の劇画に見つけることが出来る。【キリマンジャロをもう一杯】(1976)という題の中篇であった。仕事で悩みを抱える男は立ち寄ったレコード店で万引きの現場を目撃し、店員に見つかって窮地に立った女子高生を救ってやるのだった。礼も言わずに男を睨(ね)め付ける娘であったが、気分が悪くなったと下手な芝居を打って男をホテルに引きずり込み、その全身(からだ)を預けようとする。

 憤懣(ふんまん)を溜めまくった男に取っては渡りに船であるのだが、娘の言動の端々には幼さが露呈し、昏迷を極めてどうやら捨て鉢となっている様子である。事情を察した男は寸でのところで冷却し、娘に対してやさしく帰宅をうながすのだった。さて、このとき娘は唇をゆがめ、眉根を寄せる典型的な“泣き顔”を作り、涙を糸となしている。なんと合計5コマにも渡って泣いているのである。石井劇画では異例の動作だ。

 ここで注視すべきは過剰な涙もさることながら、感情の波が引いた後の娘のさっぱりした表情であって、誇張された天真爛漫そのものの笑顔は私たちの内側に妙に突っ張った違和感を築くのだった。目鼻立ちや均衡のとれた肢体、それに当初の不安げな瞳は私たちに馴染みのおんな“名美”そのものであったのに、今ではこのような名美はいない、という確信が湧いてくる。まったくの別人格を宿して見える。実際、石井は【キリマンジャロをもう一杯】の劇中、この娘の名前を明かす台詞なり小道具を配置しなかった。代わりに過剰な涙と嗚咽を付け足すことで、“名美に成らざる者”を産み落とそうと努めて見える。

 その事は、同じ制服姿の娘を主人公に据えた【爛れ】(1976)と比べれば明白だろう。石井は同じような目鼻立ちのこちらの娘に対し、住まうアパートの部屋の名札や新聞記事の一部を拡大してこのおんなが“土屋名美”という存在だとくどくどしく説明するのだったし、呼応するようにして涙をひとコマに限ってにじませるという細かい演出を施している。

 つまり石井隆の世界において、絶対的に涙や泣き顔が隠蔽されていくという訳ではないのであって、“名美”的な人格が付与された際にはじめて抑制なり遮断が起こって劇の様相、人物の面貌を変えていくという事なのだ。情動の白波に洗われる物語にありながら、魂の描写はことさら微細化する。見えるか見えないか分からぬひと筋の涙の背景には、作者の底知れぬ想いが積み上がって感じられる。

 “名美泣き”を付与された人格と、そうではない人格の間に何が横たわるかと言えば、感覚的な物言いになってしまうが“周回の違い”が在るだろう。並走しているつもりでいるふたつの魂の足元に見えざるラインが引かれており、一方が他方より既に何周分も余計に走っている。それが石井の劇によくある酷(むご)さであるし、名美という造形の中核となる圧倒的な重さだろう。

 ゴールは目前であるが、動悸は早鐘のよう、腱も悲鳴をあげて裂傷間近であり、地に伏してしまえば二度とそのまま起き上がれそうにない。それに気付かぬまま周回遅れの並走者は快活に微笑み、エールを送り続けてしまうのである。そんな酷薄さを含んだ時空を石井は飽くことなく描いてきた。石井の劇とは突き詰めれば、孤別に立ちゆらめく時間軸の酷さ、哀しさなのだと思う。ひるがえって見れば、それはそのまま私たち、個として暮らし集っていく人間(ひと)の宿痾である。

 涙の観点から映画『死んでもいい』を再度たどり直せば、これはひとりのおんなが“名美的な者”つまりは周回を重ねた者へと変貌する過程を描いていたとも言えるだろう。相愛の仲となることで天空へ飛翔し得ると信じたのに、世界がどのような黒い波に洗われても互いが神となり鬼となって加護し合うものと信じていたのに、男は自分を殴ると言い出し、実際に手を振り上げたのであった。売り家のがらんとした部屋で一方的に迫られた交接であったが、あの時はこころと身体を許し、愛を信じたおんなが今、ホテルの高層階の浴室で暴力の嵐に遭っている。結局のところ、強姦は強姦でしかなかったのだ。時空を経ておんなの心は漂流を止め、フィールドを再度駆け始める。周回を経てゆるゆると目覚めたおんなは、ようやく名美となって涙を一筋こぼしていく。


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