2014年2月27日木曜日

“陶磁器のように硬く”~石井世界の涙④~



 石井隆の描くおんなの泣き顔、そこには独特の風合いが宿っている。そこで、関連書籍(*1)を幾冊か手元に置いて、涙、そして、泣くこと、という側面から石井作品を眺め直そうと思い立つ。結果はどうだったかと言えば、宙ぶらりんの気分を今は味わっているところだ。どこかで接点は見つかるだろうと頁をめくってみたのだけれど、この“名美泣き”に符合する記述に出合うことはなかった。

 喜多嶋舞が渾身の演技で造形し、フィルムに焼き付けた『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)での名美は、能面のように硬い表情で前を見据えたまま涙腺を決壊されていくのだったが、あれこそが“名美泣き”の典型だろう。(*2) 読者や観客は前後の流れからおんなが泣いている、と理解するのだけれど、そのコマなりカットだけを切り出してしまうと判然としなくなる。涙の筋をそこに見止めなければ、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けないのが“名美泣き”である。

 我が身を振り返ってみて、あのような泣き方はしていない気がする。感情がばんばんに膨れ上がって泣く瞬間に人のほとんどは顔面の筋肉を収縮させるものだし、紅潮したり、歯を食いしばったりする。身体を海老のように曲げたり、腰が抜けたりする。映画館のスクリーン側にそっと立ち、呆然として紅涙を絞られる観客を仮に観察出来たとすれば、整然と彼らは座っているわけだから“名美泣き”に少しは近づくように思うが、さめざめと頬濡らす瞳の周りはぐわっと力んでいるのだし、眉だって多分八の字を作っているはずであって、やはり陶磁器のような硬く白い面立ちを維持し続けることは困難だろう。改めて考えれば、実に不思議な面相である。

 不思議と言えば、容貌だけでなく、その力や役割においても石井世界の劇中の涙は独特ではないか。涙には共振を誘い、復讐へと誘惑する力があるとも言う。エチオピアの軍事暫定政権は行方不明の息子の母親が泣くことを有罪にしたという逸話があるのだが、これは涙を見せられた他者が耳を傾け、酷(ひど)い仕打ちに怒り、そこから本格的な政治討論へと発展するのを恐れたためだ。涙は世界を変えようとする。現実であれ空想であれ、具体的な行動に駆り立てる魔術的な再創造の場へと目撃者を導く。そのように流麗に本の作者は語るのであったが、はたして石井隆の劇中に流れるおんなの涙はどうであろうか。

 私たちは傷心の名美と共に立ち上がり、男たちに刃(やいば)を向ける気にはならない。復讐を経てカタルシスを得ようとする段階はとうに過ぎた、外界に作用をおよぼす余白の無い、放り投げられた心持ちになるばかりだ。

 ある人は涙を流す五つの場合として、歓喜、悲観、安堵、感情移入、自己憐憫を上げるのだが、涙する名美というものは、単純に悲観や自己憐憫により泣き暮れているようには見えない。ここのところも通常のドラマとは隔たりがあるように思う。内心に渦巻くものをひとつの言葉で括ることを許さぬ、方向性を持たぬ泣き顔が展開される。

 本当はおいおいと声上げて泣きたいのだろうか。我慢に我慢を重ねているのだろうか。情炎の作家である石井の劇空間において、おんなが涙を流すことは決して珍しいことではないのだが、その泣き方は極めてストイックだ。ゆがんだ顔や嗚咽を回避したり、押しとどめる力が働いているのではないかと勘ぐってしまう。終戦の翌年に生を受けた石井が戦時中の教育や世相に引きずられ、廉恥心(れんちしん)の考えを叩き込まれた末に涙を抑圧する気質を育んだ可能性は否定出来ないから、それが石井世界の全篇に乾いた風を送りこんでいる、なんてことはないだろうか。

 いやいや、それは例によって私の馬鹿げた妄想だろう。石井ほど涙にこだわる作家もいない。それは先に書いた通りだ。結局のところ、よく分からない。おんなの涙にとことん弱い私は、背中のむこうの微かに震える気配に気を取られ、宙ぶらりんの心持ちのままいつまでも揺られ続けている。


(*1):参考文献「人はなぜ泣き、なぜ泣きやむのか?涙の百科全書」 トム・ルッツ 八坂書房 2003 「女の前で号泣する男たち 事例調査 現代日本ジェンダー考」 富澤豊 バジリコ 2008

(*2):私たちの涙は涙嚢(るいのう)や鼻涙管などを経て鼻腔へと流入するものだから、鼻水をすするという動作を意識的に差し挟まなければ鼻の穴からも大量の分泌物を溢れさせるはめになる。喜多嶋は名美という存在が避けて通れぬ“哀しみのフェーズ”を理解し、一切の表情を殺して臨んだのであったが、生物としての宿命ゆえに涙はおびただしい液体となって瞳に限らず彼女の顔全体を濡らした。わたしはその様子に惚れている。

美しさとか世間体に囚われて表層的な演技しか出来ない我が国の俳優の大概とは違い、昨今の欧米の役者と彼らを盛り立てる演出は豪胆さ、凄味を増している。ひとの魂と生理とがいかに密接に絡み合っているかを理解し、果敢に描写を続々と叩き込んで圧倒されるばかりだ。嘔吐や排泄についても論法上避けられないと思えば徹底的に見せてひるまないのだけど、喜多嶋の涙する名美は十分それに肉薄しており、見事としか言いようがない。

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