2014年2月27日木曜日

“たったひとりの物語”~石井世界の涙①~


 四半世紀ぶりにフランスの恋愛劇(*1)を観直す機会があったので、これに合わせて演出家のインタビュウ本(*2)を書棚から引っ張り出し、関連する箇所をたどって過ごした。

 かりそめの恋をかたくなに信じ、若い将校を追って海を渡り、集落から孤立した挙句に発狂した実在の女性を天才肌の女優が演じていた。幸いそんな時期を過ぎた身とすれば、ひたすらご愁傷様と思い、痛ましく感じるばかり。我ら人間という器の不完全さ、あまりの脆弱さ、その反面生まれ落ちる多様性、時に目を瞠るたおやかさと大跳躍に首を傾げたり共振したりの二時間だった。

 さて、作品について語る監督の言葉に乱反射する箇所があったので、書き写して思案の口火にしようと思う。恋慕の焔(ほむら)に焼き焦がされたおんなはわたし達に向けて二度、三度と落涙してみせるのだったが、トリュフォーはそんな景色にからめて以下のような発言をしていた。

「今回わたしが気に入ったのは、たったひとりの愛の物語を語ることができるということです。中尉などはほとんどどうでもよい存在です。アデルの愛は彼女の頭のなかだけの愛なのです。それはひとつの妄執(もうしゅう)です。今度だけは批評家も、わたしがなまぬるい映画を撮ったとは言わないでしょう。この映画には涙を流すシーンが多い。われわれはもう滑稽であることを恐れたりはしませんでした。」(*3)

 “滑稽であること”とは勢いのある言い様である。無遠慮ではあるが絶妙な投げ掛けで、あれやこれやと想いが湧いてくるのだった。涙を見せて泣くという行為自体をはしたないと感じるのか、それとも役者から台詞を奪う間を無駄な空隙と捉えての発言であったか、木づちの音がこつこつと聞こえるような颯爽たる話術を駆使する監督であったから、きっと後者なのだろう。嗚咽(おえつ)はリズムを裁ち切り、劇の停滞を招く。許されるとすれば、それは対人関係を持たない一人称の詩篇に限られるのではないか。アデルの狂気を描くことは徹底した独唱であるから涙や嗚咽(おえつ)は進行の邪魔をしない、そんな感じにきっと違いないのだが、それにしても泣くという行為がここまで表現者に“恐れ”を抱かせるものかと思うと、とても興味深くてしばし頭の奥で反響した。

 幼少時から今に至る自身のことや、あの映画はあの漫画はどうだったかしらと懐旧する中に、やがていつものように石井隆の世界を手探る時間となった。これまで意識して考えたことは無かったが、石井は涙の表現につき慎重であるのだし、トリュフォー並みに、いやそれ以上にこだわり抜いて来たことが解かってくる。

 同時代を席巻した他の作家、たとえば上村一夫(かみむらかずお)の劇画をどれでも良いから手元に置いてめくれば、程なくおんなの頬をはらはらと流れる涙を視止めるはずである。やがて一箇所で円(まる)く溜まって花弁と化し、蝶になり、世界を投影する銀色の球体になったりする。そこまで抒情的な技巧を凝らさぬまでも、多くの表現者は泣くという所作なり透明な分泌物を己の作中に前向きに、道具のひとつとして採り入れることに躊躇しない。(*4)

 石井の劇はそうではない。恋情や性愛を題材に選んだ劇が大半であるから、登壇する者は濁流に放られた小船のように揺さぶられ消耗していく。座礁して忍び泣きたい場面にだって突き当たるのだけど、石井のおんなも男も実に巧妙に涙を隠そうとするのだった。いや、そのように書くと泣き顔を滑稽と思い、落とす涙を恥と感じて虚勢を張るという意味合いが出てくるが、そうではなく、石井の劇空間自体がその瞬間にゆらめき、震動し、涙や嗚咽を隠す方向に動いていく。

 【女高生ナイトティーチャー】(1983)と【裸景の漂流】(1984)は同時期に発表された小編であるが、共にひとコマに限って涙は描かれている。あっ、泣いているんだ、と気付いた刹那、前者では飄々とした日常の雑音が、後者では一陣の風が紙面を覆っていき読者が、そして、おそらくは登場人物が感傷へと雪崩れることを食い止めるのだった。

 中篇【赤い微光線】(1984)の終盤においては、同棲している名美と村木が衝突し、背後からの怒声に反射した名美は生活の疲弊を嘆き、こころの磨耗を訴える声を迸(ほとばし)らせるのだったが、それを耳にするや否や聞き手は即座に背を向けて枠(わく)外へと退出する。そればかりか作者は、おんなの密度ある長い黒髪をうなだれる顔おもての前に簾(すだれ)のごとく垂らし、読者の視線を完全に遮るのだった。酔いと絶望から俯(うつぶ)していくおんなの右手にはアルミ缶が握られてあるのだが、徐々に傾き、飲み口から黄金色の液体が垂れてベッドを湿らせていくのは涙の隠喩に他ならないから、この時、明らかに泣いているはずなのに、石井はその状況描写を意識的に回避する。

 コマと頁を多く割きがちな涙顔(なみだがお)を様々に工夫して隠蔽することに注力して見える石井の話術は、劇画から映画へと連なる潮流においても一貫する。たとえば『夜がまた来る』(1994)で潜入捜査官の夫を殺されたおんな(夏川結衣)は、その後、復讐のため修羅の渦(うず)に身を投じていくが、局面ごとに苦痛に晒され絶叫することはあっても“泣くこと”を執拗に避ける。苛烈な大団円を迎えた夜明けの屋上で遂に身もこころも砕けて、あきらかな泣き声が朗々と響き渡るのであったが、その時、カメラはおんなの側からそっと離れて宙に浮き、天空をふり仰ぎ、尾を引いてたゆたうその声は紫の大気と楽曲に吸い込まれて消失(きえ)るのだった。涙はここでも隠蔽される。人物造形の点でも舞台造形の面でも極めて特徴的なものであり、これに目を凝らすことは石井隆の世界全体に想いを馳せる上で有効と感じている。


(*1): アデルの恋の物語 L'Histoire d'Adèle H.  監督フランソワ・トリュフォー 1975
(*2):「トリュフォーの映画術」 アンヌ・ジラン編 和泉涼一、二瓶恵訳 水声社 2006 
(*3): 同 362頁
(*4):参照画像は 離婚倶楽部 下巻 上村一夫 まんだらけより2013年12月に上梓されたもので、初出は1974‐75年。






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