2014年2月27日木曜日

『死んでもいい』泣き顔の分裂~石井世界の涙②~


 石井隆の“涙”は隠蔽を基調とすると書いたが、熱心なファンからは異論が出るに違いない。映画『死んでもいい』(1992)では、大竹しのぶや室田日出男、そして永瀬正敏までもが泣きに泣く。涙を川とする印象を観る者全員に抱かせるのであって、描写を回避しようとする素振りは毛頭感じ取れない。これはどう捉えたら良いものだろう。元々石井のなかに涙に関するセオリーは存在しないのであって、先に述べたことは全くの妄念に過ぎないのだろうか。

 大竹しのぶが演じる名美は不動産業を営む室田の年齢(とし)の離れた妻であり、若い風来坊に魅入られた末に力ずくで犯され、そのままその若者と夫との境界で気持ちをゆらめかしていく。このように書くとありきたりの不倫劇に見えるが、それは劇の骨格が実際の事件に基づくせいもあるだろう。世間というものは繰り返しで出来ており、俯瞰すればいつでも堂々巡りで味気なく見えるものだ。『死んでもいい』で流される涙の雨は、そんな世知辛く無味乾燥の顛末をしっとりと濡らして私たちを銀幕に曳きこむのだけれど、同時に表面張力を生み出して、私たちの理性をぽんと弾き出そうとする。劇と密着するこころを突き放す瞬間がある。

 いくつか記憶に刻まれる泣き顔と涙があるが、特に鮮烈なのは終幕に流される二つだろう。ひとつは情人に夫を殺害された後、衝撃を受けて赤子のごとく泣きじゃくる大竹の姿である。事態の急激な展開が理解できずにへたり込む大竹に対して、情夫は偽装工作のためにおまえを殴らなければならぬ、と唐突に切り出すのだった。拳(こぶし)を高々と振り上げる若い男を仰ぎながら、大竹はわぁわぁと声を上げて泣き、何とも哀れでならない。

 もう一箇所は、劇の終幕を飾る静謐なひと滴(しずく)の涙であった。血へどまみれの浴室から引き出され、束の間の失神から覚めてみれば、広々とした寝台にその身体は横たわっており、かたわらには若者が黙座しているのだった。煙草に火を点けてくれた若者の前で、名美は音もなく涙を零(こぼ)していく。

 対照的な動作が連続して描かれる。激しい嗚咽(おえつ)をともない長々と続いていく前者と、一切の動きを排除して目尻に湧き上がり、落涙するその一瞬を切り取って静止画となり、やがて溶暗に至る後者とは、同じ泣くという生理現象であれ、誰の目にも段差が大きいものとして映る。そんな言葉があるかどうか知らないが、緻密な“泣き分け”が『死んでもいい』の劇中で為されている。いや、厳密に見れば、両者は隔たりが大き過ぎて完全に分裂して見える。別世界の様相を呈している。

 石井の手になるシナリオと照合することで、さらに興味は深まるのだった。後者のト書きを単行本「名美Returns」(*1)に所収されたシナリオから引けばこうだ。「信(まこと)、英樹の血のこびり付いたライターを差し出す。シュポッと点ける。名美、ライターを凝視(みつ)めている。涙が溢れ落ちる。(中略)その火を引き受ける様に、ゆっくりと深く喫う。とめどなく流れ落ちる涙」(*2)となっており、泣くことが、その涙が、この終焉の場に不可欠な事象であることを堅い調子で物語る。

 これに対して前者はどうであるかと言えば、「名美、気が動転して、何が何だか分からないまま、信を見ている。信、ためらいながら、名美の乱れた上衣を摑んで引き裂く。露出する名美の胸も返り血で赤い。(中略)信、殴る。しかし力が入らない」(*3)と書かれてあるだけで、泣きに関する示唆は一切ない。本読みや現場で思いがけず化学反応が起き、あのような悲愴極まる嗚咽がフィルムに写し取られたということであり、それも含めての『死んでもいい』であるのだし石井世界には違いないのだけれど、厳密に言えばあれは女優大竹しのぶの解釈が色濃く出た結果であり、石井の思惑からは逸脱した演技と想像出来なくもない。

 「名美の潤んだ目が信を睨む」(シーン25 居間)、「涙を浮かべて首を振り続ける名美」(シーン57 岩風呂・大浴場)、「コップをいじる手に、涙が落ちる」(シーン70 二階の小部屋)、「英樹、左手で名美の頬を張る。尚も張る!張る!髪をワシ摑む。泣いている名美」(シーン78 ランクルの中)、「「黄昏のビギン」が二人の間に静かに流れ、英樹、少しずつ鎮って行く。すすり泣く名美」(同)、「すすり泣きながら、首肯く、名美」(同)、「目を閉じる英樹。背で眠る、名美、泣いている」(シーン80 居間)──このように石井のト書きというものは、実に的確に細かいところまで織り上げるところがあって、劇画のリアリティをそのままシナリオへと移行し、演出意図を現場末端まで浸透させていく、そんな役割を担っている。涙の落とし処(どころ)について書き漏らすことなど、通常無いのだ。

 結果的に大竹の創り出したあの乳児のような、誰にも真似できそうにない嗚咽は、終幕で自死する破目に陥るおんなの無垢なる内面、純朴さ、読みの甘さや夢見がちな優しさをまざまざと浮き彫りにし、温かい血を頬に通わせ、劇に厚みを与えたのであるから賞賛に値するばかりなのだが、石井世界を考察する上で何ら抵抗なく連結するのは危険ではないかと考えている。名美の造形という一面に限って言えば、的の中心をやや外した感が無くはないのである。

 “石井泣き”、それとも“名美泣き”とでも称した方が良いのか、それは確かにあって、『死んでもいい』には該当するものとそうでないものが混合している。

(*1):「名美Returns」 ワイズ出版 1993
(*2): 同 319頁
(*3): 同 318頁 続く引用もすべて「名美Returns」所載のシナリオから

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