2023年8月6日日曜日

“見えてくる犠牲者”~『ろくろ首』考(8)~


  『ろくろ首』の終幕近く、柳葉敏郎の目を借りて私たちは野武士のねぐらを急襲する。其処で拐(かどわ)かされた複数のおんなを目撃し、その只事ではない様子に戸惑う。荒くれ者にかしづき、性愛の玩具とされて泣き顔の者、格子戸の奥に監禁され、聖職者に対して下半身を晒して媚を売る狂った行為が次々とブラウン管に映された。

 石井の劇画や映画と無縁の生活を送っていた家庭人は、廃寺での女たちの白い肌に目を丸くさせるだけだったし、放送から三十年を経て初見の機会を得た者は、往事のテレビジョンの放送コードの緩さを愉快がるのが関の山だが、この場面の根底に流れるものは相当にどす黒く、笑いごとでは済まない事実だ。

 戦国の世では、乱妨取り(らんぼうどり)、もしくは乱取り(らんどり)と呼ばれる武士たちの略奪行為が蔓延していた。主(あるじ)を持った侍たちでさえ、時に野獣と化していたのだから、戦に敗れて潰走した者が憐憫や情愛を保てる余裕など無かった。欲望のおもむくまま強引に、娘たち、おんなたちの自由を奪った。連れ去られた彼女たちの境涯は、安穏といまを生きる我々の想像の域を越えている。

 石井は権藤晋(ごんどうすすむ)のインタビューの中で、自身を育てた映画作品に数多く触れているが、そこに黒澤明(くろさわあきら)の『七人の侍』(1954)が顔を覗かす。(*1)  国内外の厖大な映画人の魂をつかみ、将来の夢や指針となって燦然と輝くこの名作を石井が口にすることは自然であるが、『ろくろ首』の荒れ果てた山寺の糜爛(びらん)した光景を見ると、無理なく『七人の侍』の山塞(さんさい)急襲の場面と重なっていく。

 土屋嘉男のさらわれた女房、島崎雪子(しまざきゆきこ)が望みを捨てて放心し、やがてぬめりを帯びつつも烈しい瞳で虚空を睨んでいくあの演技と展開である。観客の心臓をぐさり射抜いて、野武士の残虐性、非道さを体感させる描写であった。あの拉致監禁の顛末が無ければ、『七人の侍』は野武士集団と傭兵部隊の腕比べの気軽さに終始したに違いない。

 果たして石井が台本執筆の依頼を受けて、黒澤作品を参照し、尊敬の念を込めて相似する場面を挿し込んだのかどうか、これは確認のしようが無い。しかし、男たちの果てしない諍いの陰で犠牲となる存在を置き忘れることなく、むしろ主軸として劇中全篇に盛り込んだところは瞠目に値する。

 脚本家石井隆の想いが切実で真摯なスタンスであったと想像されるさらなる理由は、この苦界描写に関わる劇構造が石井世界の伽藍とまたもや重なる点にある。『ろくろ首』は、冒頭の強姦場面と後段に訪れる再会の場から『天使のはらわた 赤い教室』(1979監督 曾根中生)と通底するものがあり、『夜がまた来る』(1994)とも根茎を繋ぐからだ。そこには一歩たりとも作風を変えまいとする硬い姿勢が垣間見えるが、さらに劇の詳細を凝視するならば、実は二歩目、三歩目からはより酷薄な方角へと足を踏み入れている事が分かる。

 『天使のはらわた 赤い教室』で水原ゆう紀が漂着した露地裏のバー「ブルー」のその二階で催される悪魔的光景を前にして、蟹江敬三は目を伏せ、タタミに額をこすり付けてうずくまるだけであった。救出は失敗したのだ。されどこの苦界におんなは根を下ろし、腐肉の沈んだ水を吸収し、不敵な無表情を連れ合いと為して、それでもまだ「生きている」。『夜がまた来る』での夏川結衣は、根津甚八に手を引かれて「生きて」脱出の機会を得た。

 『ろくろ首』の廃寺にはおんなの「生きた姿」はなく、腐敗寸前の首だけが空しく置かれてあるだけだ。「劇の当初から救出に失敗している」「おんなは死んでいる」という非道い話になっていて、石井世界の数多の劇の中でも群を抜いて暗澹たる内実を含んでいる。テレビジョンの演出は明快な台詞まわしと過度な表情づくりへと役者を誘導して、地を這うような脚本家想念を拭き払ってしまった次第だが、石井隆の世界を考えるとき、その剽軽(ひょうきん)な演出に誤魔化されてはいけない。

 この陰惨な廃寺の風景というものも恐らく冒頭の再現と同様に、柳葉に対して夏川演じる月乃というおんなが、もしくは脚本家石井隆が、意図して「見せている」ものだ。首を斬られる前にどれ程の辛酸を嘗め、痛みを味わったか、男よ、男たちよ、おまえには見えているか。境界に踏み込んで別次元の存在となったおんなが、そして、どこまでも犠牲者に寄り添おうとする独りの作家が切々と訴えている。

 英雄譚、冒険談の裏側で何があったか、石井は無視出来なかったのだ。時代劇とは本来どうあるべきか、彼なりの答えが『ろくろ首』であった。

(*1):「記録の映画③」聞き手 権藤晋 「石井隆コレクション3 曼殊沙華」まんだらけ 1998所載



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