2023年8月26日土曜日

“聞く男”~『ろくろ首』考(11)~


 十返舎一九の「怪物輿論(かいぶつよろん)巻之四 轆轤首悕念却報福話(ろくろくびのきねん かえってさいわいをむくふはなし)」と、これを再話した小泉八雲の「ろくろ首 Rokuro-kubi」の間には大して段差はない。両者をここでは一体と捉えても構うまい。

 それではこれら原作群と石井の脚本との「分岐点」は何処にあるのか。一見すると始まって直ぐの柳葉敏郎が夏川結衣を救出する場面に見える。なぜなら、原作には夏川演ずる月乃(月姫)が見当たらないからだ。

 ろくろ首の集団におんなが混じるという記述はある。十返舎戯作では「男女四五人」、小泉Hearn の英文においては「four persons—men and women」「the head of a young woman」という綴りである。しかし、それ以上の特徴なく無個性のまま配置されているから、月乃(月姫)という若い娘の造形は明らかに石井の創意に由っている。(*1) (*2)

 先述の通りこの救出場面はおんなの亡霊が実体化して男たちの前に現われ、自身が被(こうむった)暴姦現場を再現して見せているという、ひどく複雑な組み立て方がされている。視聴者がそれに気付くまでには相当の時間を要する点で石井隆ならではの典型的な「不在、見えざる物」の描写となっていて、原作からの乖離が劇の早い段階に始まることは一目瞭然である。

 しかし私の言う「分岐点」とはあらすじの上の変転ではなく、石井隆なりに原作を咀嚼し、自分の方へと捻(ね)じ曲げたくなった、看過し得なかったポイントは何処であったか、創作のスイッチが入ったのは何という言葉や台詞であったか、いわば「発火点」を指す。

 私見に過ぎないが、頁をめくる石井の手が止まり、行間を読もうと目を細めた瞬間は木樵小屋で身の上話を聞く場面に至った際ではなかったか。

 野宿などせずにおいでください、露をふせぐ軒はあるから、と諭されて案内された小屋のなかで、数名の同居者がいろりを囲んで暖を取る姿が見て取れる。手をそろえて丁寧に挨拶する様子から由緒ある家柄のひとではないか、どういう経緯でこんな人里離れた場処に住んでいるのか、と疑問に感じて水を向ける僧に対して、主は切々と昔語りをするのだった。

 ある大名に仕えて重い役職を担っていたが、酒色に耽って悪行に手を染めてしまったこと。それが原因で一家は破滅したこと。多くの人、おそらく一族郎党がそのせいで死んだこと。今は罪ほろぼしに出来る範囲で不幸な人々を助けていること。祖先の家名を再興する事のできるように祈る日々であること。

 僧はその告白を受けて、自身が授かった仏法にまつわる知識の中から因果応報の故事を何例か説き、若い時分に愚かな行為に染まった人が後年には善行に励んでいく姿を見てきた、どうかそのまま正しき道を進みなさいと返している。

「おことが善い心をお持ちのことは疑わない。それでますますよい運が向くようにと願いますのじゃ。今夜、わしはおことのために経をあげて、これまでの罪業に打ち勝つ力が得られるように念じ申そう」(*3)

“I donot doubt that you have a good heart; and I hope that better fortune will come to you. To-night I shall recite the sûtras for your sake, and pray that you may obtain the force to overcome the karma of any past errors.” (*2)

 小泉Hearnの文章では省かれたが、十返舎一九の「怪物輿論(かいぶつよろん)」においては「對話(たいわ)数刻(すこく)を費(ついや)し」と続いているから、慙愧懺悔(ざんぎさんげ)と鼓舞激励との湿度あるやりとりが三、四時間も続いたと分かる。

 「愚かなことに溺れがちだった人間」(小泉)、「積悪(せきあく)に余(よわう)あって」苦しむ者(十返舎)(*4)を遠ざけるのではなく、にじり寄ろう、手を握っていこうとする視線が認められる。この「聞く男」の熱意に石井は立ち止まったのではなかったか。

 原作の後半では一気に凶暴化していく僧である。まるで二重人格のごとき豹変ぶりであった。騙され、喰われかけた事に憤慨したにせよ、それにしても情け知らずである。相手を殴りまくって絶命させ、「その化け物を殺したのはわしであっても、血を流してそうしたのではなく、身の安全をはかるため」であったと役人に自慢げに語り大声で笑う男は、もはや僧ではなく何者かに変貌を遂げた、いや、仏道を投げ捨てて「武士」に舞い戻ったかのようだ。

 ところがどうであろうか、石井隆の男は最後の最後まで彼らの身の上話を信じて、火中の栗を拾おうと奮闘し続けるのである。首を締められても、咬みつかれそうになっても、男は信じようとした、救おうとした。原作から脱線していく改変であるけれど、石井の内実が窺える分岐点」であり劇の展開となっている。

 『天使のはらわた 赤い教室』(1979監督 曾根中生)、『天使のはらわた 名美』(1979 監督 田中登)の村木哲郎、そうして『ヌードの夜』(1993)と『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)の紅次郎の系譜として回竜という男がこの時起動し、肉付けが始まったと考えられる。


(*1):「怪物輿論 付田舎草紙・滑稽膝栗毛 十返舎一九集6」 中山尚夫 古典文庫497 1988

(*2):プロジェクト・グーテンベルクProject Gutenberg

https://www.gutenberg.org/cache/epub/1210/pg1210.txt

(*3):「小泉八雲集」 上田和夫 翻訳 新潮文庫 1975  六十四刷 2013 209頁

(*4):余殃 よおう 先祖の行った悪事の報いが災いとなって現れること。殃の文字にはわざわいの意がある


0 件のコメント:

コメントを投稿