2018年6月17日日曜日

栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(5)


 栗本薫「ナイトアンドデイ」が雑誌に載ったのは1982年10月頃だから、早くてもその年の正月初め以降が執筆時期と想像される。石井隆のオフィシャルファンサイトで石井の単行本が上梓された年月日を調べれば次の通りだ。

 「名美 石井隆作品集」1977.12.05、「赤い教室 石井隆作品集」1978.11.10、「天使のはらわた 第一部」1978.08.15、「天使のはらわた 第二部」1979.01.01、「天使のはらわた 第三部」1979.06.01、「横須賀ロック 石井隆作品集」1979.07.15、「おんなの街 石井隆作品集」1981.05.15。(*1)

 栗本が「ナイトアンドデイ」のモデルに「かの石井隆大先生」を起用しようと決めた時、石井劇画のこれら代表作が書店の棚のおそらく高いところに並んでいたはずである。手にとって頁を開けば、【おんなの顔】(1976)、【街の底で】(1976)、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【水銀灯】(1976)がそこにあった。【愛の行方】(1980)があった。そして「おんなの街」があった。

 【雨のエトランゼ】(1979)と【赤い眩暈】(1980)も堂々と身近に横たわる時期にありながら、栗本はこれらをほとんど読みこなすことなく「いつも追われ、犯されるだけ、そこで物語はとぎれ、決してそのあとのつづきや結末のない女」(*2)を視とめて、「あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然とし」、「どのみち読者は、一部の知識人のさわぎとは別に、この雑誌、この作家、などとえらんで買いもとめているのでありはしなかったようだ。かれらにとってはどういうちがいはなかっただろう」という結論に至ったのだ。これは相当に軽率で罪づくりで、恐るべき結審である。

 問題の「あとがき」を含んだ単行本「ライク・ア・ローリングストーン」が世に出たのは1983年5月1日であるが、石井はそのとき「ヤングコミック」で【黒の天使】を鋭意連載している真っ只中にあった。そのような「モデル」の石井の活躍があるにもかかわらず、栗本は次のような文章で「あとがき」の最後部分を締め括っている。

 「いまの私は少女マンガしか読まないけど、宮谷一彦や、永島慎二や、石井隆は、いま、何をしてるのだろうな、と思ってみたりする。(中略)昭和五十八年一月」(*3) 

 「石井隆は、いま、何をしてるのだろうな」とは、なんとも壮絶で凶悪に過ぎる献辞である。出版業界と近接していながら調査の手を尽くさないまま、「現役」の作り手である点を十分に認識せずに「モデル」と称してなぶっていく。深慮を欠いたそんな不安定さのまま、危険な綱渡りを自らに強いた命がけのひとりの創り手を滅茶苦茶に思い描き、さも観て来たように書き散らしたのだった。「ナイトアンドデイ」とはその程度の文章であって、到底石井隆の現実の七十年代と結び付けて許される本ではない。

(*1):石井隆の世界 公式ファンサイト http://fun.femmefatale.jp/
(*2):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収  文藝春秋 212頁
(*3):  同 225頁

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