2018年6月17日日曜日

栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(4)


 「ナイトアンドデイ」は極めて石井隆とよく似た、いや、石井隆そのものを指すとしか言えない当時の状況をつぶさに書き込みながら、同時になんだか訳が分からない箇所も含んでいる。この不気味な分断はどう捉えるべきか。

 「もし、彼のその絵を、おちついて見る批評眼を保っている男があるとしたら、おもわず吹き出したかもしれないぐらい、男と女には、彼の描きかたに、ものすごい露骨な差があった。男などは、ただいればよいというようすで、表情などはロボットのようにかたく死んでおり、ときには黒くシルエットでぬりつぶされていた。背景も紙芝居よりお粗末だった。木の茂みなど、ただの丸をぬりつぶしただけだった。」(*1)

 これは石井隆をモデルに使っていないと言い切るための保険や免罪符なのか、それとも栗本の分身である若者には実際そんな風に目に映ったのだろうか。丸のかたちでぬりつぶしただけで木の茂みをどうやって表現するのか、私にはどうもよく解らないのだけど、「背景」となるものに人物の心情を密着させ、巧みに仮託していくことを初期段階から試みていた石井の絵画とは次元のちがう話になっている。

 こんなエピソードがある。石井劇画の制作現場に居た人から直接聞いた内容なのだが、アシスタントが未舗装の地面を表現するよう指示を受け、気持ちを込めて腕をふるった。前に世話になっていた他の作家の作業場で描き慣れていた方法、つまり石ころを大小の楕円で表してあちこちに配するやり方なのだが、それを観た石井から即座に注意を受けたそうである。石はただの丸ではない。その場のあるがままを描く必要があるのだ。

 草葉を黒く塗りつぶすなんて、そんな安易なことは石井世界では許されない。草の葉一枚、石ころひとつにも作者の思念が及んでいたから、どんなに採算性が悪くてもアシスタントは、もちろん石井自身も手が抜けなかった。膨大な量の線が紙面に投じられていったのだ。それが石井劇画の「背景」の特徴にして内実である。

 実際の石井隆と作中人物が同一と思われぬよう、石井の十八番である繊細な背景画を栗本が切り落としたという事であるならば、言葉少なに淡淡とそう記せば良いだろうにいちいち悪態を吐かないと気が済まない。表情が死んでいる、紙芝居より粗末という、いかにも見下したような意見をなぜ書かねばならないのか。裸の王様に気付く子供のように「おちついて見る批評眼を保っている男」ならば、性愛が主軸の劇画に熱狂など絶対にしないと言いたいのか。そこまで私たち石井隆の読者を読解力のない痴れ者と決めつけるのか。

 「その夜はひさしぶりに悪習がよみがえってしまった。」「われながら異様に思ったのは、翌日になってもまだ、あの絵を思いだしただけで体の芯(しん)の方からたかぶってくることだった。金があったらトルコへかけこんでいたろう。その興奮には、異様で少し病的なものが混じっていた。」(*2)

 聖人君子ではないから石井の劇画に扇情されたことが一度たりとも無かったなんて書くつもりはない。けれど、それにしても何てステレオタイプで幼稚な反応だろう。単純で分かりやすい読者像をあてがい、栗本は石井隆をめぐる巨大な世のうねりを蚊か鼠を媒介とする熱病か犬のさかり並みの一時的な脱線と読み解き、甘い郷愁に染まった実体なき蜃気楼とでも括りたいのではないか。

 「つまるところ、そうそうただひたすらなワイセツ、欲情、下司さ、の中に浸りこんで、ただ欲情だけを感じて何の倦怠も虚しさも感じずにいられる、というのは、そうとうタフな身体と心の持主なのだろうとぼくは思う。セックスがいくら好きでも、セックスのことだけ、あるいは食い物のことだけ、金のことだけ、四六時中考えるようには、できていないのだ。ぼくのような、ふつうの人間──ごく平凡な男というものは。佐崎さんと違って──そして、さいごには、あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然としてくる。」(*3)

 自瀆(じとく)する道具としてだけ劇画の役目を定める単純な読者像を一方に置き、栗本はこれと対峙する作家を同等の短絡したイメージに染色しようとする。自分(栗本)のような、ふつうの人間──ごく平凡な女というものには佐崎=石井のような下司な妄執は続けられない。彼らは異常であり、狭隘な性欲の谷間に咲いた汚い徒花であり、あっという間に枯れていく存在だと言い切っている。あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然としてくるのはこちらの方である。

 どうしたらそんな読み方が出来るのか。石井隆の仕事に「倦怠や虚しさ」を感じ取れないとはどんな目を持っているのか。「セックスが好きでセックスのことだけ四六時中考えている」なんてどうしたら想像できるのか。「横須賀ロック」や「名美」を読んで暗い気持ちになり、宮谷一彦、永島慎二と同質の匂いをかいだ末の彼女の「創作」がこれなのか。怒りを越えて無性に悲しくなって来る。石井の世界観を消化しようと身悶えし、おのれの血肉にすることを嫌い、分からないし分からなくてもぜんぜん構わないとあっさり背を向けてしまったおんな(栗本)も哀れだし、考察することを手控えて逃げに逃げた「創作者」の一生を不憫にも感じる。

 わたしが石井隆の読者になったのは中学の終わり頃で、他者と触れ合う性体験の片鱗もない時期であった。その後、それなりに時間を重ねて酸いも甘いも味わってきたけれど、傍目には平均的な半生をつむいできたと見えるだろう。性愛に対する嗜好だってありふれた味覚と嗅覚であって、そういった意味でどこまでも普通のどこにでもいる読者であったと思う。

 栗本の創った若者とわたしの視野角なり光度は違って当たり前であるから、あのような単純な若者が世間に少しはいたことは想像出来るし否定はしない。しかし、こういう別個の少年もいたのだ。石井隆のまぎれもない読者のひとりとして当時受け止めた感覚を刻んでおきたい。

 闇にたじろぎつつ解放されていく人間の、ささやかな夢の匂いを嗅いでいた。肉の哀しみを常に見ていた。恋情の昂揚と終息を垣間見せられ、人に対して臆病にもなったが優しくもなった。

 死という終点を雨夜の向うに幻視して謙虚になった。歓びと淋しさが、聖と邪が、健康と隠滅が表裏一体であることを感じた。幼さは人をかまびくしくさせ、老成は人を美しくすると信じられた。都会はどこまでも寂しく、人は独り同士であると伝わった。性差をむさぼるよりも魂の共振が、共鳴こそが嬉しいのだと解かった。

 物質のひとつひとつ、雨滴、ヘルメット、整髪料に薫る髪、スカートのひだ、浴室のタイル、僅かな表情の変化に感情が乱反射し、ひとが其処で費やした時間や思念が宿るように思われた。髪に触れる、肌に触れることが会話なのだと信じ、大切なものと思えるようになった。性愛のもたらす悲劇と至福を意識し、幸福な時刻(とき)を求めていきたいと心から願った。それが私にとっての石井隆だった。

(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収  文藝春秋 172頁  
(*2):  同 167頁
(*3):  同 180頁

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