2016年4月29日金曜日

“リアル”~着衣の根源③~


 現実に起きた1932年の「首なし娘事件」で心にとどめ置きたいのは、“頭が切断され持ち去られていた”という箇所と、“頭には長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのようにかぶり、女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て”という部分だ。最初の状況は『GONINサーガ』(2015)を、後の方は『GONIN』(1995)のそれぞれの場面を彷彿とさせる。

 特に『GONIN』にて、二重に現実離れした展開をなぞってみせるジミー(椎名桔平)の末期は、当事件に触発されたと考えてまず間違いない。ナミィー(横山めぐみ)を目前でなぶり殺され、自らも瀕死の態となった男は、かたわらに落ちていたナイフを拾い上げて実行し、身に纏い、よろよろとした足取りで仇の待つ事務所に歩んでいった。例によって凄惨奪衣の場面は私たちの視界から隠され、観客はいきなり扉の奥から現われたぼろ雑巾のような風体の男に驚かされるのだった。

 いや、大いに戸惑ったというのが本当のところであろう。当初『GONIN』を観たとき、私も十分に認識し得なかった。血に汚れたおんなの服を重ね着して哀しみの鬼と化した男の凄みは即座に伝わったが、仁王立ちする全身像を捉えたのはわずか数秒のカットであって、また薄暗がりでもあり、違和感を微かに覚えたものの頭皮、毛髪の装着までは察知し切れず、仰天したヤクザがこらえ切れず嘔吐する様子を怪訝にさえ思った。

 ようやく女装の詳細を理解しても、あまりに“非現実的”な想像の産物と思えた。こんな馬鹿な事はどんな狂人だってしないだろう、荒唐無稽すぎる、勇み足ではなかったか。どちらかと言えば観念的な描写と断じて、その展開を訝ったのだった。そんな訳だから、今から八十年程前に生を振り切った男の死装束が、愛したおんな遺髪と衣服であったことを事実と知ったときの驚愕といったらなかったし、自身の視野の狭さを大いに恥じると共に石井の劇の階層がいかに厚いかを再認識した。

 石井の画業の戦端となったのが、「事件劇画」、「実話雑誌」という実話系の雑誌への短篇やイラスト掲載であった事をここで思い返す必要がある。庶民の生活に渦巻く実在の事件を題材とし、痴情のもつれから傷害や死に至る顛末を描くことが多かった。また、初期の短篇【淫花地獄】(1976)は、雪原に建てられた見世物小屋を覗いた若い姉と弟が小屋の主である男にかどわかされる幻想譚であるのだが、出し物は奇怪な蝋人形を配したジオラマなのだ。江戸川乱歩あたりが好んだ景色であるが、石井の場合、これが上の事件の十年前にあった別の一件、連続少女殺人の再現となっており、犯人である吹上佐太郎(ふきあげさたろう)の相貌を模した怪人が幕の裏側に息ひそめていて油断した姉弟を手に掛けるのだった。

 石井は、現実に生きる人間が何かの拍子に軌道から外れ、破滅していく様子を熟知している。それが壁一枚を隔てた場処にてそっと息づき、浸潤の機会を窺っていることを理解している。映画『GONIN』の構想に当たり、かねてより思案の途上にあっただろう1932年の事件の顛末を流用したことは実に自然この上ない展開であって、何処にも無理がない。

 彼の劇をリアルではないと迂闊にも書いてしまう人が今も散見されるのだけど、それは自らの見識のいかに足らないかを世間に公言するに等しい。リアルという概念は実は怖しく狭い。世界は不可視の領域を膨大にかかえているのであって、私たちはひと握りの情報や体験をもって大概を知り尽くしたと錯覚しているだけだ。したり顔で真に迫っている、嘘っぱちだと安易に批評しているが、実際のところは相当に曖昧なものに頼っていて的外れになりがちだ。

 周りにはどこもかしこも境界線が張りめぐらされ、何かの拍子に越えた先に待ち構える事態を誰も予想だに出来ない。恋情、色情、怨嗟という果てに立ち上がる極限のリアルを石井は数多くの事件簿から探知し、考察のために常にたずさえ、深く静かに潜航して見える。そうして、その一部を劇に注ぎ入れ、重石と成して、より深いこころの淵をめがけて黙々と放っている。






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