2016年4月16日土曜日

“右の足”


 忘れがたい男優に原保美(はらやすみ 1915-1997)がいる。かれこれ三十年以上も前となるが、都内での催しに登壇したのに対し、一冊の本を差し出しサインをねだっている。その頃は脚本家が役者以上に注目され、書店には華やかな装丁が為されたシナリオ本が並んでいた。この日持参した単行本も、原がかつて出演したテレビドラマのそれだった。

 当時、家庭にビデオレコーダーは普及しておらず、ブラウン管に映る影はその場限りの走馬灯と思われた。鑑賞には自ずと集中力を要したし、後日脚本集に目を通せば、ト書きと台詞の妙技に酔うばかりでなく、網膜に漂着した景色を懸命にたぐり寄せて反芻する時間となった訳であり、持参した本にしても血肉となってもはや感じられるのだった。時おり背後から励ましを送ってくれる気の置けない随走者といった位置付けであったから、その出演者に間近で会えるのは望外の喜びだった。

 おお、こんな本が出てるんだねえ、と目を細めた表情が脳裏に貼り付いている。誠実さと淋しさを甘く香らせた外貌には、頑な過ぎる気真面目さといったものが裏打ちされて見えた。もちろん、実際のところは分からない。人間の皮膚の下には、色相のまるで違う雑多なものが貼り付いている。それは重々承知しているけれど、わたしの中の原保美という男は常に慎重で繊細な存在に目に映った。

 面立ちというものが各人のこころの基盤の凹凸を何かしら反映しているとしたら、この俳優の内実には、過去、いったいどんな色の杭がどれだけ深く刺さっていたものだろう。彼の実母が歌人であることを意識したのは最近のことだ。原阿佐緒(はらあさを)の生家、そこは保美も幼い日を過ごした場処であるのだが、改装されて記念館となっているところに寄り道する機会があり、知識をいくらか得てから展示物を眺めようと決めて、関連書籍を幾冊かまとめて読んだのだった。自然、特に蝶や蚕を用いた比喩が巧みで、文体に独特の脈動が宿っている。心底驚いたし、何よりも懸命に生き抜いた人と感じ入った。ささやかな共鳴を覚えると共に、俳優原保美が織り成す独特の間合いや光彩がどこから来たのか、少しばかり分かった気がした。

 司会者より母の思い出について話を振られた保美は、とても美しい人であった、おぶってもらった感触を覚えている、と、静かに返したのだったが、その低音の一語一句が耳朶に居座っている。あの折の想いの程に今更ながら気付かされ、特別の資質を引き継いだ人だったことを了解した。こうして三十年程も経ってから結線するとは、人生とはつくづく長い迷路、果てしない貝合わせをしているのだな、と驚くより他ない。

 さて、わたしは原家の研究家ではないから、興味の向かう先は無遠慮にずれてしまうのだけど、偶然読み進めた阿佐緒の評伝の中で「右の足」という短編小説の存在を知り、実に面白い発想をする人が世の中にあったものだと感心したのだった。小説の紹介箇所を書き写してみよう。

 「自分の右足の美しさを知った女主人公小枝子が、右足に接吻されると性の愉悦を覚えることに気付き、恋人の青年や同宿した女友達に接吻して貰う。やがて運命の迷路に立った小枝子は、自分が滅びることで、相手も自分も救われると考える。そして「死を豫知(よち)した瞬間、然(し)かも意識を失わぬ中に医師に右足を切断して貰」い、右足の一番形の好い指の一本を、緑の小箱に入れて送る、と高熱のなかで考える、という被虐的な内容である。退廃、官能、虚無が色濃く漂う」。「阿佐緒は男性の側からの性的愛玩物である「足」を、女性の側からの性的嗜好として、この「右の足」への偏愛を告白したのだ。」(*1)

 人体の限定された部位を偏愛する物語や事件は珍しくはないが、発表の時期がとにかく早い。大正10年、西暦に直せば1921年である。やや乱暴な比較とは思うが、首を愛でた谷崎潤一郎の「武州公秘話」(昭和6年)の十年前、阿部定による情死事件(昭和11年)の十五年前、川端康成の「片腕」(昭和38年)の四十二年前に当たる。地方の素封家で生まれ、幼少のころから西洋画集を眺めて育った阿佐緒というおんなの、その魂の奥に培われた世界観がいかに広角で真新しかったか、どれほど先鋭だったか理解出来る。

 それにしても、恋しい相手の肉体の一部を欲望にまかせて奪い去るというのではなく、自らの側を切断して捧げようとする顛末は、傷害や遺体損壊が横行する殺伐とした現代にあってもなかなか見ない凄みのある奇想だ。熱狂的なファンが己のイコンに対して、自身の体毛や体液を忍ばせた贈り物をするらしい事はどこかで聞いたことがあるが、出血と激しい痛みをともなう切断を経て与えようとする行為はさすがに多くは聞かない。

 高岡智照(たかおかちしょう)が新橋の芸者だった頃、小指を切り落とし、仲たがいした情夫に差し出すことで真情を訴えたのは1911年(明治44年)のことだ。原の「右の足」の十年前に起きて、世間を騒然とさせたらしい。(*2)  この辺りの記憶が原の筆を取らせたものだろうか。原は1888年、高岡は八年遅れの1896年生まれであり、ほぼ同世代にあたる。高岡の指詰め事件を、原は二十三歳の花盛りの時分に見知った可能性がある。

 いやいや、安易に決め込むのは前からの悪い癖だ。高岡の件だけが執筆のきっかけということはあるまい。当時の色恋の峠なり末路には、その手の流血の景色が日常的に湧いていたのかもしれぬ、と思い直す。情念の濁流は昔も今も花柳界にごうごうと渦巻き、その氷山の一角が“指きり”という形でわずかに露呈したのだろう。血なま臭い風に世間は、そして歌人は、絶えず吹かれ続けていた。第一歌集を上梓しようとする原の眼前に、狂恋の血の雨が日夜降りしきり、原をして情事の果てに人体切断という局面に至ることは自然の理という概念を育たせ、執筆時により滑らかに、まるで垣根なく、身体部位の贈呈という強靭な表現へと飛躍させていった、とする方が説得力を持つ。

 息をして、飯を食い、生きていかねばならぬ私たちは、その生で一度か二度、壮絶な恋愛の嵐に見舞われる定めであるけれど、哀悼傷身の儀式がかつて我が国にもあったように、時代が違えば個々のルールも変遷するのであって、身体の自己損壊と切り取られた部位の寄託を愛情の深い証しと信じられた歳月が歴史の何処かにあっても不思議はない。私たちのこころの奥にはそんな烈しさ、極端さへと我が身を手招く踏み台が隠れているのではなかろうか。

(*1):「うつし世に女と生れて 原阿佐緒」 秋山佐和子 ミネルヴァ書房 2012 193頁
   原阿佐緒の「右の足」は、同人誌「玄土(くろつち)」大正10年1月号、第二巻第一号に所載
(*2):「遠花火―高岡智照尼追悼」(伊藤 玄二郎 かまくら春秋社 1995)に引用された自伝の、小指切断の前後の様子を読む限りにおいては、高岡を突き動かしたのは極大化した憤怒であったようであるが、事件により絶縁に至ったふたりはその後再会し、しばしの間ながら親しく付き合ったのも事実であって、察するに自傷の際にほとばしったのは嫌悪をともなう性質の怒りではなく、やはり恋慕より派生して急激に膨張した悲哀に基づく行動であったと受け止めている。

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