2016年4月2日土曜日

“ウジから人間が生まれた”


 四枚のディスクで構成された「GONINサーガ ディレクターズ・ロングバージョン BOX」には、主要キャストやスタッフ参加のオーディオコメンタリーが収められている。石井隆はここで、劇中に飛ぶ蠅について語っていた。小説版から抜き出せばこんな場面だ。

「明神の指がトリガーを引き、ドドドドド!とウージーピストルが炸裂(さくれつ)して麻美を襲うが、今度はその側で死んでいる慶一の体を砕き、次の瞬間、慶一の死肉を食らっていた蠅が、ブーンと羽音を唸(うな)らせて慶一から飛び立ち、それはまるで慶一の血肉を食(は)んだ蠅が慶一自身と化したかの様に明神に向かって翔(と)んで行く。」(*1)

 含みがあって裏読みを誘う文章だけど、マイクを前にした石井はこの蝿を亡者の化身として描いた旨、淀みなく打ち明けるのだった。人間が最期には一匹の蠅へと化している。殺し屋に纏わりついて離れなかったあの小さな影は、柄本佑が演じた警官のなれの果てなのだ。『GONINサーガ』(2015)は、前作『GONIN』(1995)のこまごました事象や台詞を連連と再生してみせ、血脈であるとか、回る因果にむけて観客の意識をきつく束ねるからくりであって、この蝿への変身もそんな反復のひとつだ。石井世界の彷徨者には自明ゆえ驚くに当たらないのだが、初めてこの石井のたくらみを耳にした読み手は当惑を覚えるに違いない。

 十九年前のわたしがそうだった。「映画芸術」に掲載された石井と山根貞男の対談の冒頭で、荻原(竹中直人)の惨殺された家族の蠅への転生が、さも当たり前のようにふわりと軽い物言いで記されてあるのを読み、大いにうろたえた。石井世界の森羅万象は漠然と配置されたものではなく、ひとつひとつがかなり周到に準備された精密な装飾であり、物によってはその背後に無限の不可視領域を抱えたまま黙って控えている。畏怖すべきサブキャストとして、映される全要素を捉える必要がある。底知れぬ罠や複線を懐胎した結晶空間なのだと私は肝に銘じ、それからは自ずと留まる時間を増やしていったのだし、粘り腰の鑑賞をするのが常になった。

 前述のとおり、小泉八雲がその著書に記し、また、別の識者も専門書で説くように、人のたましいが蠅に姿を変えるという内容の民話や伝説は珍しくない。(*2)(*3) 勉強嫌いのうえに先達の声に耳を貸そうとしない傲慢不遜の私が、その手の知識に疎かっただけであって、化け物の妖しげな飛跡は古来から人間の死線に寄り添っていた訳である。たとえば、先に取り上げた大林太良(たりょう)による「葬制の起源」の中にも、蝿(ここでは幼虫であるウジ)が重要な位置に座る人類創生の神話が紹介されている。

「《ひっくり返しの法則》とはいったいなんであろうか?早くいえば、起源についての観念が、終末についても適用されたり、終末についてのと同じ考えが起源についても述べられることである。(中略)死体が腐ってくるとウジがわく。ところが、これを逆にして、ウジから人間が生まれたという神話が生まれる。ポリネシアのトンガやサモアの神話がそうである。ターガロア神はその娘のトゥリをヤマシギの形で天降(あまくだ)らせた。裸の岩に生物を住まわせるためである。このようにして発生した蔓草(つるくさ)の一つが枯れ、その葉からウジムシが生まれた。トゥリは嘴(くちばし)で、このウジムシをくだくと、なかから人間をつくりだしたという。」(*4)

 ウジを直視するカットは『GONINサーガ』に盛り込まれておらないから、この南海の古代神話と映画とは直接像を重ねない。けれど、私の奥には目覚めの亀裂をもたらし、鼓動にも似た弾んだ音が止まらなくなる。最下層と目される場処から新たな人間が誕生するという、極めてコントラストの強い舞台空間での浮上イメージは、どこか石井世界と通底してはおらないか。

 汚辱の暗い淵におもむろに出現する聖性、悲壮なまでのその照り返し、苦悶の隙間を突いて湧き出す生命の閃きを、思えば石井隆という作家はこだわって描いてきた訳である。『GONINサーガ』にて残飯や排泄物といった汚穢(おえ)にこれでもかとまみれていく強調表現と、その後に待ち構える激烈で神々しい死闘も、これと軌を一にするものと捉えて良いし、蝿も単なる羽虫ではなく、程なく聖性を帯び始める。

 劇の終盤、ダンスフロアの床下に潜んだ若者は、傷つき膿んで臭う身体をしばし横たえる。何処からやって来たものか、その傷口には蝿の幼虫がたかり、徐々に身体が乗っ取られていくのだが、凄惨の極北にあるそんな姿というものが忌まわしい糞袋の域を脱していき、やがては妙に温かな人間味なり活力を帯びて感じられるから不思議だ。
蝿にまつわる神話を縷々(るる)見ていけば、スクリーンに蠢くものの光彩は違って来るのは当然で、なるほど錯覚と言われればその通りなのだけど、石井隆のつむいでいるのはやっぱり神話と感じられるし、いつしか奇蹟の証言者、神降ろしの目撃者に選ばれているという堅い自覚が芽生える。  

 コメンタリーの中で石井は「日本人の宗教について描こうとしている」旨をつぶやいて、これを悪い冗談ととらえた面々に一笑に付される箇所があったけれど、あながちそれは本音ではなかったか。たとえば、『死んでもいい』(1992)の終局に置かれた高層ホテルの浴室にて、叩かれ失神し、血反吐に汚された身体を男の手で洗い清められ、綺麗に着替えまでされて寝台に横たわる大竹しのぶの一連の始末に関して、湯灌(ゆかん)という言葉が日本にはあるのだ、とするりと説いてみせるのが石井隆という作家の怖さであるから、彼のドラマ創りの根幹に膨大な民俗学や葬送の知識があると考える方が至極自然である。

 石井世界の劇で用いられる素材なり物語を支配する死生観は、荒唐無稽の思いつきではないのだ。出たとこ勝負の混沌状態ではない。作調は常に破壊に次ぐ破壊、寒々しい情景であるのだけど、荒れ放題になった庭園の趣きではなく、どちらかと言えばその逆の徹底した理詰めの作業を経て、綺麗に整列なった植樹が為されている。選ばれたその木々が多く、それぞれ豊かに葉を茂らせ森の様相を呈しているだけであって、内実はずいぶんと手が込んだ造園なのだ。

 『GONIN』と『GONINサーガ』において、息絶えた身体からの離脱(霊の出現をふくめて)が繰り返し描かれている点を、こうして丁寧に消化していけば、新旧二篇を貫く線は縦方向の“昇天”ではなく、横方向への“滞留”もしくは“転生”であると気付くのだし、そこにはたぶん現在の作者の死生観が盛り込まれている。煩悩まみれの現世で、伽藍の建立と寄進に踏ん張る男のまなざしが宿っている。宗教画としての側面が『GONINサーガ』には確実にあって、蝿は花押(かおう)となってそこに留まりつづけている。


(*1): 「GONIN サーガ」 石井隆 角川文庫 2015  377頁
(*2): 「葬制の起源」 大林太良 中公文庫 中央公論社 1997 85-86頁
(*3):http://grotta-birds.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
(*4):http://grotta-birds.blogspot.jp/2015/10/blog-post_22.html

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