2016年5月3日火曜日

“形見”~着衣の根源④~


 私事となるが、二十年近く前に年長の家族を葬っている。高齢で闘病も長々と続いていたから、家族親族ともに納得の上の最期と捉えてはいるのだが、今更ながらあれこれと噛み締める時がある。

 物置にそっくり移動した和箪笥の中に、着物や帯などが仕舞われたままとなっている。その前を歩くたびに気持ちが打ち沈む。薄暗闇に捨て置かれた格好のそれが痛ましく、とにかく申し訳ない気持ちで一杯になる。性別も体型も違う以上は手に取るまでもなく、私にとって使用し得ない性格のものばかりだ。遺品と形見との違いは何かといえば、遺された者の身近にあって本来の能力を発揮し得るかどうか、と思うから、残念ながらそれ等は遺品のままで棚奥に眠り続けてもらうより仕方ない。

 同性の親族に形見分けを強いるのも気が引ける。何より衣服は時代ごとに流行もあるし、また、死穢の意識も正直混じるはずだ。そもそも、形見分けという場面が今の世の中にあるのだろうか。物があまりにも溢れ過ぎている。流通する食物のうち、まだまだ食べられるのに年間約500万トン以上が廃棄されていく狂った時代に生きながら、古きものを形見として存分に活かすことは難題でしかない。この世に形見として機能し、遺された人を励まし支えていく物が実際どれだけ有るのか、私には正直のところよく分からない。

 振り返れば、石井隆の『GONINサーガ』(2015)は形見とそれに準じたものが目白押しで、登場人物の多くは大なり小なり“物”に囚われている。こういうのを若い世代はどう受け止めるものだろう。石井の作劇に絶えず見られる物への執着が、今回はずいぶんと色濃く顕われていたように思う。十九年の歳月を越えて貸し借りされるハンカチ(*1)であったり、手首に光っていた金色のバングル、自慢の拳銃であって、それ等は単なる物ではなく思念や怨念の凝結した化け物染みた迫力をそなえて劇中を縦断していた。

 他に触れる人は誰もいないが、私がもっとも慄然としたのは上にあげた可視領域の形見ではなくって、実は台詞に出現したそれであった。殺された親の無念を晴らす目的から遺児たちが共謀し、劇の中盤に暴力組織の隠し金庫を襲撃するのだけれど、その直前に交わされた会話に顔を覗かせている。警官に化けて乗り込むと決めた三人は、異様な昂揚に包まれながら下着を白いブリーフへと穿き替えていく。今にして思えば死に臨む前の白装束の一端であるのだが、そんな着替えの只中に不自然な形で割り込んで来たのだった。該当箇所を小説版「GONINサーガ」から書き写してみる。

勇人が大輔のしている父親の形見の磁気バングルを見て、
「マッポはバングルしていませんよ」
「親父も連れてってやろうとしただけじゃんか」
大輔が外す振りをして、勇人の目を盗んで長袖のシャツの中に押し上げて隠し、
「穿き替えたパンツ、母ちゃんのバンチィ~穿いて来たんじゃねえだろうな?可愛い可愛い勇人ちゃん。マミィ~~」
「なんすか、それ?」勇人がムッとして突っ掛かろうとすると、(*2)

 表層だけを見れば、裸の付き合いの朋友であればこそ許される猥雑な冗談でしかないのであって、ただそれだけと読み流しても一向に構わない場面であろうが、私たちは石井がどれだけ着衣にこだわり、形見にこだわり、此岸と彼岸を貫くまなざしをいかに大事に扱って来たかを知っている。そうである以上、確かに冗談であるにしても極めて重い内実をそなえたものと理解すべきではなかろうか。殊にここでの会話と状況が、親の形見を銘々が携え、またはそれを巡っての特攻と知れる以上、単純な戯言として片付けるべきではない。

 『GONIN』(1995)と『GONINサーガ』の作劇のスタンスが同一であり、起伏を完全に連ねている点を思案に重ねれば、前作での“着衣”の意味や目的はそのまま持続するのであって、ここでの遺品着装の仄めかしは世界観においてはいかにも自然で、強固な必然性を帯びていく。

 私が先の台詞で身震いを覚えたのは、冗談がまるで冗談に聞こえず、たぶん図星だろうと思ったからだ。私たちの目に触れない場処で、遺品を前にして膝折り消沈する男の姿が目に浮かび、煩悶に押しつぶされる余りに着装を試みる様子が重なる。そんな事はどこにも書かれていない、勝手に解釈を広げるなよ、そういうのを妄想って言うのだ、と叱られそうだけど、石井隆の作劇というのは本来そういう物狂おしい事態や行為のつるべ撃ちであって、この脳内補填を間違ったものと私は思わない。勇人という若者の造形はむしろ、それでもって完成されるのではないか。愛する者の肌着を着装することを厭わない、そんなナイーヴさがあればこその劇中の数々の言動であり、散り際の雄叫びではなかったか。『GONINサーガ』の世界観の構築はそれで完結するのではないか。(*3)

 故人を見送る時間が長く連なるとき、はたまた何らかの理由で人が人と生き別れとなるとき、着装という手段にて魂の融合を図っていくことがある。それぞれが異性同士であれば、その行為の外貌を異端視し、ことごとく嫌悪し、悪しざまに言う者も現われる訳だが、石井はおかしな事ではないよ、人間とは元来そういうものだよ、と、そっと囁く。

 ああ、そういえば、今になって思い出したのだけれど、形見というものが突出した瞬間を先日テレビの報道番組で観ている。石井は極限のリアルを求めると先に書いたのだったが、その辺りとも結線する話だ。モニターに映された婦人は、細く白い腕に大きな黒い男物の時計をはめていたのだった。

 地脈が複雑な網目となって足元を這い進む島国に暮らす以上、私たちはこれからも世界でも類を見ない巨大天災に不意討ちをされ、辛酸を嘗めるのをどうにも避けられない。日々を重ねて編み込んできた無数の感情の糸は、その色とりどりの鮮やかな魂の組み紐は、その度ごとに切断を余儀なくされる。地べたに放り出されて孤立し、人は形見にすがっていく訳であるが、その婦人も必死の想いで夫の遺品をはめているのだろう。奇妙で滑稽と見るか、寂しくも愛しい姿と見るか、私たちのこころの質量が問われる場面と思うし、石井隆の装飾にはこの種のさりげない橋懸かりが、つまりは精神面が外装を期せずして変えていく一瞬があるように思う。

(*1):劇中でも、小説版でも明示されているが、麻美と大輔の交わすハンカチは同一のものではない。それでは唯一無二の形見の品と並列すべきではないのじゃないか、ありふれた生活の道具として描かれたのであって、同一視は避けるべきと思うかもしれないが、ハンカチやライターは特別な光源を放って石井の劇で用いられてきた。さかのぼれば【天使のはらわた】(1978)の第三部に、名美が村木に対してハンカチを差し出す場面があった。恋情の発露、惹かれ合う男女の邂逅を描くにはやや古典的な道具立てであるが、麻美と大輔両者の劇中での立ち位置を明確に示すサインとなっている訳である。石井が当初から土屋アンナを物語の裏側を貫く背骨として登用し、自身の世界を構築しようと試みた節が読み取れる。ハンカチは常に別格の扱いをして構わない。
(*2):「GONIN サーガ」 石井隆 角川文庫 2015  219-220頁 完成した映画での台詞はここまでふざけた調子ではなかった。
(*3):『GONINサーガ』を石井はスター映画と位置付け、演技者を徹底して追い込む事を避けている。それは井上晴美や福島リラといった女優陣が演じたおんなたちの、最終的な造形を見れば分かるだろう。白い裸身をフィルムに刻むことを避け、着衣のままで舞台袖に帰らせている。そのような配慮は勇人(東出昌大)にも及んでいると考えて良いだろう。




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