2016年5月5日木曜日

“温かい屍体”~着衣の根源⑤~


 故人の衣服を羽織る。この行為を介してゆるやかに想い持続させ、生者と死者とが手をたずさえて難局を越える一瞬が石井の創作空間には頻発する。針の振れ具合が極大化したとき、『GONIN』(1995)におけるジミー(椎名結平)のように、はたまた『GONINサーガ』(2015)における明神(竹中直人)のように屍体の一部を身に纏うこととなる。神妙な面持ちで形見を譲り受け、撫でさすり愛でるといった軟らかな次元ではなく、死肉そのものを着装するというのだから物心両面で容易な事態ではない。一般には天と地ほども違って見える行為なのだが、石井隆の劇では段差がまるで無いのが興味深いし、本来は醜悪でひどく殺伐とした光景となるべきところが、不思議と温かみを増していくのも面白い。遺体と生者の間に、独特の親和性が生まれている。

 ここで言う劇とは単に筋立てを指すのではなく、石井の演出に基づく劇画や映画の時空をいう。たとえば脚本を提供した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)と、石井が監督も務めた『ヌードの夜』(1993)、『フリーズ・ミー』(2000)では共に殺人と死体遺棄が描かれており、冷蔵庫やドライアイスを用いて遺体を身近に隠し置こうとする顛末が描かれる点で同じ系譜の映画なのだけど、自他ともに良きコンビと認める池田の演出においてさえ、石井のまなざしとはすこし違った顔付きで死者は面前に現われるのだった。損壊の痕がまざまざと露出し、恐怖の表情を浮かべた肉片となって銀幕から我々を威嚇する。これに対して石井の死者たちは、もはや私たちを脅さない。それどころか生前の粗暴な言動を反省して手を合わせるような沈んだ風貌となり、いかに目を剥いて倒れていても其処に恐怖は潜まない。

 死者の立ち構え(ここでは寝構えとでも言うべきか)の特殊なせいだろう。自らを殺めようと近付く相手に対して人は当然ながら激しく抵抗し、逃げようとじたばたするものだ。映画空間での被害者の多くは、拒絶して突っ張る気持ちを体現して、死してなお苦悶に喘ぐ。しかし、石井の死者たちに残留するベクトルというのは反発する方向に働かない。特定の生者に執心することを止められず、どこまでも寄り添おうと努めて見える。幽かな波動は、愛する者に向かっておだやかに流れ続けるのである。多分、『GONIN』の娼婦と『GONINサーガ』の踊り子は、愛する相手に身を斬られながらも形見と化していくこと、かたわらにもうしばらく居られること、それを通じて男を励ましていくを想い描き、すべてを許容して微笑んだに違いないのだ。

 野の小路に据えられた磨崖仏(まがいぶつ)が長年風雨に洗われるうちに、頭や手足を失いながらも泰然として微笑み返すように、生一本の芸妓が熱いこころを託して切り落とし、愛する相手に送った小指の先端が血に染まりながらも清麗と思えるように、石井の死者たちは空を摑み、節々を硬直させながらも、また遺骸は血をこびりつかせながらも、どこかしら穏やかな面差しを宿していく。生を全うすることのひとつの理想像が、それとなく提示されている。

 昨夜『GONINサーガ』を観直しながら、つくづく人肌の映画と感じる。ああ、石井隆だな、これは石井の体温だな、と思う。非道い人間ばかりが列を為す救いようのない話なのだけど、ひと皮剥けば誰もが善人と感じられる。ただ不器用で、何もかもが後手に回ってふらついているだけなのだ。血と雨でまだらと化したダンスフロアに折り重なった屍者たちを温(ぬく)く感じながら、ほのかな嫉妬心さえ抱いていく。そこに交じりたいような、実に妖しい気持ちのざわめきがある。






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