2011年10月8日土曜日

“女性を描ける系譜”



 さわやかな薄青の空の下、微かな肌寒さをもう覚えながら、いまごろになって扇風機を片付けている。タオルでふき清め、ビニールに包んでから物置に仕舞った。今年の夏ほど活躍した年はないだろう。「お疲れさま」と思う。

 先月下旬、青緑(あおみどり)の布表紙が目に鮮やかな一冊の本(*1)が上梓された。四十五歳という若さでこの世を去った劇画家上村一夫(かみむらかずお)の航跡をたどる内容であり、卓抜な色使いや洒落た構図の彼の絵があますことなく紹介されている。広告代理店に籍をおいていた頃の手堅いポスター画にはじまり、晩年の円熟した筆致までを網羅していて壮観この上ない。上村の真骨頂である“表紙画”“一枚絵”が紙面にひしめく様子は“絢爛”という表現が実にふさわしい。

 正直言えば──その程度の声ではこの本の真価は揺るがないと信ずればこそ、なのだけれど──頁から切り取られ並べられた上村の絵は当然ながら物語性を喪い、満水から決壊へ至るまでの“溜め”がない分、本来の劇画作品が秘めている衝撃や波動の振幅が隠されている。初めて触れる若い読み手には、上村のコマ割りの妙(みょう)は読みきれないかもしれぬ。漫画であれ映画であれ、その美しさ、その面白さを“止め絵”でもって説明するのはなかなか難しいことだ。

 されど、修正の痕や鉛筆による指示書きなどが描きこまれた(ある意味ノイズにまみれた)原画を発掘し、臆せず大量にスキャニングして収録してみせたこの「リリシズム」と一晩二晩と添い寝してみるならば、創作者上村のまなじりや吐息に直接触れたような心もちとなり、返ってくる弾力は相当なものなのだった。素晴らしい本と思う。巻末には上村を共に支えた編集者と原作者、それに家族の三者が膝をまじえた鼎談(ていだん)が収まっており、これもまた読ませる中身であった。

 大事に想う相手に贈りたくなる、そんな昂揚感がうずまく一冊、劇画史に足跡をきっと残すだろう握力ある仕上がりだと私は思う。元より無理な相談だろうけど、このまま増刷せずに幻の書籍にしてもらいたい、そうしてこの本を手に出来たことの幸福をずっと死ぬまで引きずっていきたい、そんな妄想も抱かせてしまう。

 成立に欠かせなかったのは上村を愛しぬく人間たちの熱情にほかならず、なかでも研究家森田敏也の想いの強さがうかがい知れる。人間が人間に惚れぬくことの愉楽、夢をかたちにすることの快感、人生に思いがけず打ち寄せる出逢いと光明が偲ばれ、まばゆい充足と同時に昏い嫉妬も覚えた。上村作品に惹かれるひとだけでなく、あの時代とあの頃の息吹に愛着を覚えるひとにも至福の時間が約束されている。少なくとも上村ファン、劇画ファンを自任する者はすぐにも走らねばならぬだろう。

 さて、本題というか、こうしてキーを叩く目的は当然ながら上村礼賛ではない。上に紹介した座談会に登場する編集者は石井の劇画作品の成立にも深く関わった人物であり、彼の口から当時の“石井隆の出現”がどのような位置付けにあったかがうかがい知れる、極めて印象深い言葉が湧いている。是非ともこれは書き留めておきたいと思った。

───いや、漫画家は描けなくちゃ困るんです。それでその後に石井隆に行っちゃうんです。極端なんです。女性を描ける系譜が上村さん石井さんというふうになっちゃうわけで。(*2)

 上村と石井ふたりの作品を並べてみると絵の趣きはまったく違い、一瞥するだけでは水と油ほどもかけ離れて見える。髪や肌の質感、裏通りの匂い、寝具の置かれた部屋に巣食う湿度と体臭。同等の感覚をそこから共有することは、なかなか困難だ。如何ともしがたい段差は編集者も認めるところなのだが、彼は形や色彩は違えども、そんな石井隆を上村の唯一無二の後進と位置づけているのだった。

 “おんなの魂の、深い部分”を書ける作家として、先頭をひた走る上村の背に追いすがれるのは石井しかいなかったと述懐するのである。担当編集者という狭い枠組みからの意見でなく、現在に至る漫画や劇画を総覧し尽くしたプロ中のプロの言葉として、また、上村没後25年を経た平成の、既に二十年も過ぎた現代から冷静に振り返って解析してみせた言葉として、これはすこぶる重く、骨のあるものと思う。

 青年誌や成人映画を舞台に闘っていかざるを得なかった石井隆の作品は、男側の抱く先入観や蔑視、欲望に上塗りされた“男のもの”と見る向きもあって、その誤解は近作に対する感想や評価にも影響をおよぼしているようだが、そろそろ“上村一夫に連なるおんなのもの”と捉えなおして評価されていい、そんな風に感じている。

 季節は移ろい、風の向きや香りは確実に変わっていく。上村が逝ってから25年以上も“おんな”を描き続け、それでもまだ走り続けている石井隆にも「お疲れさま」と思う。孤高の長距離ランナーに、心地よい追い風がどんどん吹くことを祈っている。


(*1):「リリシズム 上村一夫の世界」 まんだらけ 2011 
(*2): 同322頁

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