2011年10月22日土曜日

“視覚異常”



 これまでは漫然と眺めるだけで気付かなかったが、放送局で働くひとと話をしているとテレビの本編なりコマーシャルの表現には煩雑な縛りが数多くあり、人知れず苦労を重ねているのが分かってくる。以前、ミステリードラマをめぐってこんなやり取りがあったそうだ。銀行だか宝飾店だかを襲った直後、路上に停めておいた車に凶悪犯が飛び乗り逃走をはかる。獣のように息せき切った男たちがドアを閉じる間もなく急発進させたところ、シートベルトを締めないまま走り出すのは交通法規に反するとすかさずクレームが寄せられた。

 上の例は卑俗すぎて笑うしかないけれど、とんでもなく窮屈な現場なのだ。視聴者が“故障”と騒ぎ立てないように音声が途切れて良いのは何秒以内と決められ、画像を逆さまや横置きにしてもいけない。もちろん言葉使いはチェックがきびしい。大変だな、と思うと同時に正直つまらない世界とも思う。

 男とおんなの大喧嘩なり恋情の末路において、大概の男は言葉をうしなう。非を責められ、甲斐性のなさを問われ、言葉尻を疑われ、人間性を全否定されていく。大雨に決壊して濁流にひと呑みにされる堤(つつみ)を呆然と見守るしかない消防団員さながら、ただただ相手の声を全身に礫(つぶて)のように浴びつつ身を硬直させ、ひたすら黙るしかない。

 情けない喩(たと)えではあるにしても、そんな沈黙を答えとするしかない時間というのは確かにあって、むしろ声なり言葉が消え去った静謐な事のなりゆきこそが、描くべき“人間の風景”のハイライトとも思う。何秒ルールとか言われ、それを堅守しているテレビジョンとは偏頗(へんぱ)で病んだ表現媒体と思えてならない。

 ここではテレビジョンを弾劾するつもりもなければ、自分にそんな資格は元よりない。人間の抱える“か細さ”、“不器用さ”、“壊れやすさ”というのは往々にして長い沈黙と共にあるのだから、無音の状態をもって“異常とか故障”と称するのは短絡であるし、人間心理の“異常状態”をも含めて描き切るのがドラマの本懐ではなかろうか、という疑問が湧いてくる、それだけである。

 極度の緊張や悲哀、動転といった精神のこもごもが、身体に影響を及ぼして思いがけぬ症状が立ち現われることがある。たいせつな面談を前にして急に腹痛を覚えたり、手の平にべっとりと汗をかいたりする。こころと肉体は平行して走っていて、われ関せずと傍観をきめ込むことは難しい。そのような不調の一環として人間には“視覚異常”というのがあるように思う。

 実をいえば先月と今月と、まるで趣きの違う“視覚異常”が起こった。ひとつは凄まじい“眩暈(めまい)”であり、左へ左へと天地が傾(かし)ぎ、道路も電信柱も机もひとも、地面も空も何もかもが倒立していく激烈なものだった。頭部の出血か腫瘍を疑い、総合病院を紹介されて精密検査を幾つもこなした結果、異常はどこにも見当たらず、どうやら疲労の蓄積がもたらした悪戯だったらしい。

 震災とそれに付随する混乱の収拾に追われ、いつしか人並みに重荷というか、張り詰めたものを負っていたらしい。丁度半年が経過して糸がぶち切れ、ゆるゆるぐらぐらと凧が落下していく、そんな風だったろうと思う。

 もうひとつは視覚の“歪み”であって、先日夕刻にパソコンのモニターを眺めながら異常に気が付いたのだった。視野のやや左端の下のところに小さな虹色の亀甲型の結晶がぽつんと生まれ、にぶく発光しながら大きさを増していく。レンズに映り込んでしまうゴーストのような幽(かす)かな、けれど執拗な張り付き方であったのだけど、やがてそれが焦点を結んだ目線の先に居座る感じとなっていき、風景をひどく歪めてしまった。

 すわ眩暈の再来かと恐れおののき、早めに帰宅し、ぐっすり休眠したところすっかり症状は落ち着いたのだったけれど、あのとき、虹色の膜が襲撃する最中(さなか)に会話を交わしていた若い同僚の、顔の向かって左の半分が肉色にぐっちゃりどろりと溶け落ちたようになり、残った半分、片側に貼り付いた目だけが異様に大きく見開かれて一つ目入道のように見えてならなかった。特殊なゴムで作られた化け物でなく、人間の顔がそのままに崩れ落ちている。醜いべろべろの肉塊なりに、けれど血が通い息をし、懸命にこちらの言葉に頷き返す様子はなんとも不気味であったが、絵画の世界に迷い込んだような楽しさも正直言えばあった。(不思議に恐怖や嫌悪感は抱かなかった)

 ウェブにて調べてみれば加齢にともなう眼底出血の可能性もあり、放置しておくと失明もするらしい。大事をとって昨日大きな病院の眼科を訪ねて診察してもらったところ、最新の機器での検査結果では異常は一切見当たらない。担当は聡明な若い女医であり、すっかり復調しているところを見れば疲れかストレスで血管に穴が開き、体液がわずかながら急に沁み出し、一時的に視界を曇らせたのではないかと言う。

 自分なりに思い当たることがないではない。いや、その際に受けた鉄槌の烈しさが出血を招(よ)んだに違いなく、人間の、と書けば語弊があるか、自分自身の脆弱なこころが露わになったというか、それ程にもダメージを受けたかコイツめ、情けないヤツとあきれ返りもし、また、そっと頷きながら想いを馳せるものがある。

 石井隆の劇画作品に【おんなの街 赤い眩暈】(1980)というのがあり、これは大きな地震で亀裂が生じた路面に足をすくわれ、転んだ拍子に頭を強く打って昏睡状態に陥ったおんなの話なのだけど、幕引き寸前に黄泉を彷徨うおんなの立ち姿がぐるりぐるりと回転しながら遠ざかっていき、それに従い、不意に現世に立ち戻る、そんな眠りからの覚醒が描かれていた。いまはあの“眩暈”の倒立感、渦巻く感じがよく分かる。

 また、『花と蛇』(2004)から顕著になったクレーンを多用した浮遊感、天空から地上に向けておんなを見定め、放物線を描くようにしながらじっと見下ろし続ける粘液質のショットがあるけれど、こうして我が身に生じた不思議に照らしてみれば、あれも単に非日常的な視点をスクリーンに放り込み祝祭的な興奮を呼び込む目的にとどまらず、【赤い眩暈】に連なる一種の“視覚異常”の再現に思えてならない。

 スタントマンの運転する車よろしく完全に転がって横滑りしていくような、はたまた、溶解する人間が喋りながらひょこひょこ歩き回る光景に夢でなく現実として対峙してしまった自分は、どこか壊れた存在ながらも黄泉の汀(みぎわ)にて暮らす人間の端くれにはまだまだ違いなく、目にし得た光景も、そのときの胸を覆う心細さと切なさも、どれもこれもが人生を渡河する上での真実であったように思う。

 『花と蛇』以来、石井の映画で再発し続ける「眩暈」のショットというのは、もちろん私たちが各人各様に解釈するしかないのだけど、作り手がそれに託して来るものは仮想現実の提供という平坦な次元ではなく、むしろ人間の抱える“か細さ”、“不器用さ”、“壊れやすさ”に根茎を結ぶ“異常とか故障”であって、ドラマの本懐に迫る、というより“人間”そのものに既になっていると感じ取れる。

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