2011年10月11日火曜日

“ノイズを描きこむ”



 細い指のさきで“されこうべ”を支え、自らの額あたりに掲げ持っている若い娘。その視線をたどれば、鼻先に浮かぶ異形を貫きどこか遠くを目指すようであり、それとも、内奥へと潜って深層に達し、もはや何も捉えていないようでもある。

 どこまでも乾いて白い“されこうべ”は生命の痕跡をとどめないのに対し、娘はと言えば一糸まとわぬ裸であって、髪の毛、睫毛、唇、乳暈などがいい知れぬ執拗さによってつぶさに再現され、そのいちいちが湿度を含んでてろてろと照りかえるようであって、否応なく生命を宿して見える。与えられた色彩やかたちが瞳を強く射って、本源的な揺れを誘う。

 英語にて綴られたタイトル文字は描かれている死者と生者の中間ぐらいのごく薄い黄色で配置され、一部は娘の肌と溶け込んで読めなくなっている。そんな表紙に吸い寄せられてしまい、薄い画集(*1)を手に取ってみたのだった。

 その諏訪敦(すわあつし)という新進の画家と、石井隆の間に接点は認められない。およそ無関係の作家なり作品を並べ引くことは乱暴この上ないことであって、両者からすれば迷惑千万なことだろう、と思う。先日だって上村一夫を寄せ置いて、往時の編集者のほんのわずかな発言を針小棒大に取り上げてしまった。いい加減にしないとクレームが寄せられそうだけど、一方で思うままに感じたことを書き留めていくのもブログという仕組みの可能性だと信じ、もちろん言葉は大事に選び練っていくにしても、生きる証しとして果敢に書き留めておきたい気持ちが湧く。

 似てるかどうか、という話ではない。いや、彼らはまったく違う。諏訪の世界観と石井のそれとは実際段差を感じるし、ふたりの航跡が過去においても将来においても交差することは想像しにくい。ならば、何を思ってわざわざこの場に諏訪の名を刻み、時間をかけて言葉を編むのか。──“ノイズ”の存在である。ちょっとこれを書き残したくなった。

 この諏訪の画集の妙は作者の絵の艶めかしさ、妖しさもさることながら、美術批評家(*2)により付されたテキストに依るところが大きい。画家に訊ね、返答を咀嚼し、よく寄り添って見える。加えて古今東西の絵をひもとき、画集にもかかわらず大胆に並べ置き、諏訪の各作品に内在する木霊(こだま)を増幅させていく。
 
 月岡芳年、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フォンテーヌブロー派の「ガブリエル・デストレとその妹」、岸田劉生、小村雪岱といった先達の名前や作品が諏訪の絵画のあいだあいだに紹介され、大きなうねりを編み上げていくのだけれど、そんな思慮に満ちたテキストのなかに次のようなくだりがあった。

───諏訪はしばしば画面上にノイズを描きこむが、ここでそれが塵の舞うような描写であるのは、製作の最中にWSPEEDI予測値(広域汚染状況)が漏れ伝わってきたことと関係している。目に見えないものの恐怖、自国の政府が信頼に値しないことをしているにもかかわらずそれに対して明確な反応を示すことができない日々の緩慢、その葛藤が、諏訪のようにことさらにメッセージ性を示したがらない作家の場合でもあらわれているということである。(*3)

 なるほど諏訪の絵画のところどころにノイズが置かれ、独特の風合いを醸し出している。皮膚の表面に刻まれる無数の皺、その逆に風を孕んで丸くはち切れそうなヨットの帆さながらに張られ伸ばされ、明かりを反射し甘く光っていく肌の様子──。写実を極めた諏訪の筆は静謐な面持ちの人体を表層に築くのだが、さらのその上に配置されて、じゅくじゅくと浸潤し、ときにはふわり浮き上がるノイズの群群(むらむら)がきっかけとなって、世界を存分に揺れ動かしていく。写実を超えたドラマを派生させ噴出していく。

 石井の絵や映像には元々澄んだところがあって、透明感が顕著であるから、ノイズらしきものは初期の習作以外には見当たらない。諏訪のノイズに相当するものがあるとしたら、長く尾を引く雨の軌跡、路面や肩ではじける滴(しずく)、たなびく紫煙、落下する汗や体液といったものかもしれない。地下空間に降り注ぐ雨(のはずがないけれど、雨としか見えぬもの)や雪のように舞い散る雲母もそれに当たるだろう。それ等はあくまで「具象化されたもの」が画面に侵入して人物を取り巻き、抒情を補完していくものであって、訳の分からぬノイズではない。石井の絵作りのそれが鉄則のように思われる。

 自分のなかでそのように整理するところがあった訳なのに、諏訪の“ノイズ”に意外にも反応している。傷、滲み、汚れ、剥がれ、跳ねといった「異分子」は石井世界にはないはずなのに、どうしたことか気持ちが揺れる。

 それは近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)のせいだ。劇の終盤、主要な登場人物は手をたずさえるようにして樹海奥に眠る巨大な石切り場“ドゥオーモ”に向かう。路面はなだらかに傾斜しており、樹木の陰となってじくじくに濡れている。以前は車両も行き来したのであろうが、廃坑となって久しいらしく、道らしきものは既に消滅してしまった。そこを延延と苦労して彼らは歩いていかねばならない。

 震える手に握られた懐中電灯が幾つかと、へろへろになった紅次郎(竹中直人)の額にあるヘッドランプが光源のすべてという劇の設定である。蒼白く細い光の筋が闇夜を泳ぎ、樹木の一部を撫でるように照らし、かろうじて道を探っていく。疲れと恐怖からさんざん悪態をつきながらながら前進するのだけれど、そこはまさに地の果て、異界のただ中であった。

 女陰にも似た縦長の亀裂に至り、歓声を上げながら“ドゥオーモ”へと飛び込んでいくおんなたち、男たちだったのだけど、その刹那私たちは不思議なものを目にしてしまう。たったワンカットに過ぎないのだけど、よくよく考えれば奇妙なものだ。

 “ドゥオーモ”側から見た森の光景であるのか、それとも“ドゥオーモ”の巣食う山を遠景で捉えたものか、何がなんだか分からないし、何がなんだか分からなくとも物語を左右しない風景だ。緑色に染まる地獄のような密林が茫々と広がっており、上には青黒い空もいくらか含んでいたのではなかったか。

 足元の方にどうやら強力な光源があるようで、スミアと言うのかフレアと呼ぶのか分からぬが、“赤い光”が滲むように刻印されている。車を置いた場処からはずいぶんと離れている設定であるから尾灯(テールライト)の類いではない。これは一体全体何なのだろうと思う。

 ここまで具象化されていない無遠慮であからさまなノイズは、これまでの石井の絵作りでは観なかった。同様の、色こそ山吹色ではあるが、こちらも全くリアルでない光源を真正面から捉えたカットが映画公開にあわせて発売された佐藤寛子写真集にもあることは以前書いた通りであり、この一対のノイズは石井の手により確信的に置かれたものと言い切って良いのだろう。あたかも観客に挑んでくるように鈍くゆらめいている。

 映画『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』によって石井隆が“復活”したと単純に言うことに私は抵抗を覚えるのだが、これまで多くの画家たちが何年か毎にスタイルを変えて躍進したように、石井隆という“画家”が新しい色使いを模索していることは違いなく、それを以って“復活”と称するのであれば確かにその通りだと思う。

 先の批評家の表現を借りれば、「石井のようにことさらにメッセージ性を示したがらない作家の場合でも」、抑えがたく湧出し「あらわれるものは在る」のであって、それが私たちの見知っている石井であるとは限らない。いや、これまでと同じ石井がモニターを睨(ね)め付け、似た風情の作品を綾織ると期待する方がおかしい。

 変わっていくことが画家の宿命ではないかと信じ、石井らしい妖美この上ないふたつのノイズを受け止めている。

(*1):「諏訪敦絵画作品集 どうせなにもみえない」 求龍堂 2011
(*2):小金沢智
(*3):17頁

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