2011年9月14日水曜日

“矢車草”




 石井隆が描くところの“おんな”たちが生やす体毛、中でも“腋毛(わきげ)”がずいぶんと気になり、ひどく凝視した時期がある。2006年の7月から8月にかけてのことだ。

 様々な雑誌に寄せられた初期のイラスト群(血気迫る筆使い)に始まって、世を騒然とさせた連載劇画(【天使のはらわた】、【おんなの街】、【黒の天使】──)まで、コマ送りするようにして一枚一枚頁をひもときながらおんなの腋下(えきか)ばかりを執拗に追った。結論から言えば、石井隆という作家の抱えるとてつもない繊細さ、底なしの執念が浮き彫りになるばかりであって、何度も感嘆の声を上げ、唖然もし、個人的には愉しく充足した時間となった。

 その折に得た自分なりの感触をミクシィ(今はすっかり足が遠のいてしまった)に記したのだった。書き写せばこんな具合である。

──先に書いたとおり、石井の腋毛は精神世界の扉、胸の奥に秘められたこころに直結したトンネルのようでもあり、はたまた内奥に潜むおんなごころの、外世界への黒い浸潤と捉えるのが妥当だ。

──石井は、ずぼらな、だらしないおんなを描いてきたのか。そんなことはない。石井の描くのはおんなたちの深層に波打って軋む鳴動そのものである。人妻のこころに芽生える欲望の大渦巻き、弛緩した日常に切り込んでくる魔の存在である。平穏な生活に身を置きながら、胸の奥に徐々に膨らんでいく空洞の暗さと冷たさである。石井の不自然な腋毛は魂が魂を求めて叫んでいるコールサインなのだ。

──最初、石井の劇画の中で腋下のみがアンリアルであると書いた。石井はリアルな日常のなかには収まらない、こころに秘めた情念の激しさを本当は描きたいのだ。生きている実感を描きたいのだ。我々に石井は腋毛を通して、おんなのこころへの跳躍を迫っているのである。(*1)

 雨に煙る裏通りや赤いビニール傘、無言で手招きする階段や唇染めていく紅(べに)の光沢、冷蔵庫内にそっと蓄えられたアイスクリームカップ、暗いどぶ川の脇に狐火めいてゆらめき咲く一輪の花、突如天空より舞い降(くだ)る光の束──。石井隆の世界を彩る事象のいちいちには、単なる“背景”にとどまらぬ雄弁さが具わっているのだけれど、同様の差配は人物の所作や身体にも当然及んでいる。

 端的には皮膚を伝う汗や体液であったりもするし、風になびく毛髪や片頬だけを歪めて見せる淋しげな微笑みであったり、空(くう)を掻く足裏であったり男女の情交するかたちだったりするのだけど、埋もれた記憶が呼び覚まされ、つたなき恋慕の航跡を振り返りさせもして、観ていてどうにもせわしい気分に陥ってしまう。到るところに情感揺さぶる“呼び声”が在って、耳にしたら最後、傍観は許されないのだ。身体はあれよあれよと言う間に前傾していき、物語の渦に呑み込まれてしまう。

 体毛にしたってそうだ。汗ばんでつんと香る腋下に突如これまで無かった黒い影が宿り、読者の視線をきつく縛り上げていく。受け手それぞれが内懐にかかえる本源的なものがいたく刺激され、「非日常」の侵犯に手を貸してしまうのだった。石井はほとんどの作り手は気にもかけぬ“毛”にさえ役をきっちり割り振り配置してみせて、ひとコマごとに総力戦を挑んでくるのである。人間の深層をしっかりと見据えた、巧みで、質実な技量と思う。

 今更になって遥か昔、五年も前の個人的な感慨をここで蒸し返す理由は何かといえば、極めて印象的な“腋毛”をある絵画のなかに観止めたせいだ。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」である。正確に言えば、竹田征三という画家がたったひとりで三ヶ月もの時間を費やし完成させた「ゲルニカ」の精巧なる“模写”である。

 情操面の育成、集団活動での忍従、協調を経て訪れる達成感の体得等を目的として「ゲルニカ」の模写は美術の授業や文化祭で盛んではあるが、画家が、周囲との会話を拒絶するほど注力して再現してみせたこの“模写”にはオリジナルとの境界を跨ぐものがあって、何というかコピーの域を超えている、もっと濃密な思念の堆積となっている。

 絵画史に残る傑作を“実物大”で味わったのはこれが始めてだった。モノクロ(に近しい)と勝手に思い込んでいた世界が実は透明感ある青や濡れた感じの茶色、厚みのある肌色を配したものであって、むしろ豊穣感に満ち溢れたもの、生き生きとさんざめく空間であったのだとようやく知るに至り、とても驚き、正直飛び上がらんばかりだった。

 車通りも少ない村外れでもあり、まったくの無音にくるまれて一対一の空間にひたっていく。すこぶる幸せだった。しばし独占するかたちで向き合い、これまで目にし得なかった微細な情報を読み込んでいく。幾つもの発見があった訳だが、その中にきわめて“不自然”な身体描写を見つけて思わず色めき立った。炸裂する焼夷弾の炎に追われて両手を高々と天空に差し出し、絶叫し、逃げ惑っている“おんな”がひとり、画面右手の隅に配されている。その両わきにはありありと体毛が、立派な腋毛が植え付けられていた。

 胸もまた不自然にくっきりとたれ下がっており、特に乳暈(にゅううん)はことさら強調され、乳房と丸い乳首との間に座金(ワッシャー)さながらに挟み込まれて観る者を圧倒する。同じ作者の「アヴィニョンの娘たち」と並べ比べれば一目瞭然なのだが、身体のパーツのいちいちが存在をはげしく主張している。

 乳房なり腋毛がここでは、まだ生きていることの証しとして出現しているのであって、己の存在を抹殺せんとする邪悪な力に抗っているように見える。天を仰ぎ身悶えする一個の肉体はだから“死せるもの”の代表として置かれたものでなくって、“生命あるもの”の刻印を強く押されているのだった。

 あたかも風車(かざぐるま)か可憐な花を連想させる「ゲルニカ」の腋毛なのだったが、わたしはこれと同じ形状のものをかつて石井の劇画に視止めていて、当時ずいぶんと不思議を覚えたのだった。【濡れた八月】(*2)と題された初期の短篇の中だった。

 三人の男が海水浴場で甲羅干ししている。隣りに腰を下ろした若いおんなが気になって仕方なく、やがて銘々に良からぬ妄想を巡らしていく訳なのだけど、相手となるタンクトップのおんなの腋には薄っすらと毛が生えていて、それがまるで矢車草の花弁のようにひっそりと在って、時計回りにやさしく渦を巻くのだった。

 リアリズムを標榜する石井の技法において腋毛の表現はより現実に即したものに徐々に変わっていったから、【濡れた八月】のようなロマンティックな表現は他には見当たらず、これ一度切りである。後年描かれたものは波に弄ばれて右に左に傾ぐ海草か、田園地帯に降下したヘリコプターの風圧で四方八方に押しそよぐ稲穂の海のような具合となって、それ等はごく稀に(本当に稀に)私たちが目にする実態に酷似している。

 あの矢車草の花に似た特異な体毛は、だから、タッチの統一がなる前の石井なりの習作と捉えて良いのであろうが、こうしてピカソ「ゲルニカ」を知ってしまった目には両者が通底し合うものに映じられて仕方ない。

 無慈悲且つ圧倒的な暴力に晒され、膝折れ咆哮するおんなが共に描かれ、それが“死せるもの”でなく“生命あるもの”、運命に抗う者として表現されている。生から死への端境(はざかい)にあって、なにくそ、そうそう都合よくはいかぬぞ、負けてなどやるものか、思い上がるな、くそったれと歯を剥いて男たちを睨(ね)め付けるそんな“生き続けるもの”が見えてくる。

 腋毛ひとつに全身全霊を注入するのが画業という狂気なのだ。石井の口からピカソの名を聞くことはない以上、いつも通りのこれは妄想でしかないのだけれど、偶然であれ二人の画家は確かに連結している。遠路はるばる走った甲斐はあったじゃないか、どうしてどうして素敵な出逢いだったじゃないか、と、自分なりの満足を感じつつ休日の幕を閉じた。

(*1): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=181753403&owner_id=3993869
(*2):【濡れた八月】 別冊ヤングコミック「石井隆特選集 女地獄」1976所載 初出「ヤングコミック」1975

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