2021年4月11日日曜日

“凶事の全貌《5》”~画角を操る力、見えないもの、見せないもの~

 さて、石井は「サルダナパールの死」を自作『黒の天使 vol.1』(1998)に組み込むにあたって、この絵を思いきりトリミングしているのだが、その意図は一体何であろうか。

 「画面の奥の方の場面よりさらにいっそうすさまじくドラマティックなのは、前景の修羅場である。(中略)豊満な裸の女が胸に致命的な刄(やいば)を受けて大きく後の方にのけぞっている。(中略)女たちが生命の盛りの美しさを誇示していればいるほど、それらすべての上に襲いかかった殺戮と破壊の残酷さはいっそう強調される。」(*1)

 先に引いた「ドラクロワ「サルダナパールの死」」の中で高階(たかしな)は絵の要所ごと具(つぶさ)に解題しており、石井が額装した部位につきその文章を借りればこうなる。「いっそうすさまじくドラマティック」な前景がきっちりと切り抜かれてある。

 解釈は我々に托される。物語の展開にしたがえば、劇中舞台となった麻雀店の経営者の嗜好に由来するのだろうか。男尊女卑の思考回路で染まった麻雀店の関係者にとって、「豊満な裸の女」が背後から屈強な男に羽交い絞めされて「大きく後の方にのけぞっている」のが淫靡な好色の思いをそそって愉しいから切り抜いたのかもしれない。さらに悪趣味な想像をすれば、この店の実質的なオーナーのヤクザにとっては「女たちが生命の盛りの美しさ」を誇っているところで「胸に致命的な刄を受けて」温かい血をざぶざぶと噴き上げて白い肌を濡らし、まもなく冷たい物体と化していくそんな刹那にぞくぞくして配下の者に飾らせたのかもしれない。

 様々な角度から想像が湧き出てしまい、いくら思い悩んでもおそらく正解には至るまい。 そもそも私たちは勘違いの連続だ。過去の石井演出の劇中に現われた絵をめぐって、それがあたかも『ヌードの夜』(1993)のデルボーと同じ立ち位置にあると誤って思い込み、自ら迷路に進み入って朦朧とすることしきりだった。たとえば『花と蛇2 パリ/静子』(2005)の画廊主の邸宅で、亡き親友の写真の収まった額の背後に滝とも森とも分からぬ暗い色調の風景画を見い出して色めき立ったものの、それはロケで使用された建物に最初からそなわっていた調度品のひとつに過ぎなかった。

 後日テレビジョンのドラマか何かで確認しているのだけど、何だそうかあ、誰の絵だろう、どんな意味だろうなんて悩みまくって阿保みたいだ、と、えらく落胆したものである。けだし恋は盲目であり、あばたも笑窪だ。見誤って滑稽なことになっていく。石井がインタビュウで質問され、快くこれに答えぬ限りにおいて、実際のところは何も分からない話なのだ。

 では、答えが出ないからといってあの絵、『黒の天使 vol.1』中のドラクロワが漫然と捨て置かれた、つまり、セット組みに当たって倉庫に眠っていたストックを美術スタッフが漁り、このぐらいが大きさ的に調度じゃないかと考えてのそのそと運び込まれた偶然の産物と解釈する訳にもいくまい。やはり性格が根本から異なると感じられる。「サルダナパールの死」を前にしたカメラの“不自然な”動きを考えると、あの執拗な映しこみには演出の意志が色濃くにじみ出ているのは間違いない。

 私見にとどまる事を強調した上であの絵が存在する真意につき述べて、この項について締めようと思う。この絵は上述の通り『黒の天使 vol.1』の世界観、つまり“愛する者をことこどく手に掛けて灰燼と化す物語”を冒頭先んじて刻印すると共に、我々世間一般の“画角の狭さ、一辺倒なものの見方”に対する石井隆からの警告であるように感じる。劇画作品であれ映画作品であれ、あれ程まで構図と照明にこだわる職人である。先人の絵画の引用に際して、意図なく曖昧な気分で切り刻むはずはないのだ。

 扇情的な絵が掲げてあるな、助平どもの溜まり場だな、それにしても妙に気になるおんなのヌードだな、ああ、男が後ろから自由を奪っているんだ、やらしいなあ、と緩んだ口元で遠目に身守る我々に対して、お前の目は節穴か、一体何を見ているつもりなんだ、と冷徹そのものの瞳で銀幕からこちらを睨んでいる。石井隆がそんな真摯さを帯びつつ貼ったのがあの絵だ。

 恋情と性愛をめぐって、また、親愛と承認欲求に渇えて、私たちはときに理性を失い、激昂なり悲観に押しまくられて取り返しのつかない亀裂なり惨劇を手招いてしまう。「寝台(ベッド)」(王宮ではあるにしても恋情と性愛を確認する場処である点では違わないだろう)を囲んで一気呵成に出現した地獄の点描を一旦“見えざるもの”にしてみせた石井は、その実、血みどろの画布を我々に提示してみせている訳である。目玉を油断させながら、ここでも“不在”を遠慮なく表現手段に用いて我々に挑んでいる。

 見えないものを見せようとする作家、可視され得る物の背後にそっと隠れて在る見えないものを遠回りしていつしか悟らせ、覚醒に導こうとする作り手なのだ。改めて畏怖を覚え、手指の先からじわじわと凍っていくような、荒涼として淋しい心持ちになる。唯一無二の作家とはこういう異能の「風景画家」のことを指すのだろう。

 (*1): 「ドラクロワ「サルダナパールの死」」 「想像力と幻想―西欧十九世紀の文学・芸術」高階秀爾 青土社 1986 196頁

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