2021年4月11日日曜日

“凶事の全貌《4》”~石井隆『黒の天使 vol.1』~

 


 一光(いっこう)という名のおんな(葉月里緒菜)が相棒ジル(山口祥行)を従えて空港に降り立つ。暴力団の内部抗争で両親を惨殺された過去を忘れず、おんなは復讐に舞い戻ったのだ。古い写真と記憶を頼りに聞き込みを続け、顛末を知っていそうなヤクザの根城たる麻雀店を急襲する。その壁にドラクロワの「サルダナパールの死」がぽつねんと飾られている。

 見過ごす観客は多いに違いないが、カメラは石井作品独特の“不自然さ”で浮遊して、画角の隅にこの額ぶちを置くべく絶妙な動きを見せるのである。『ヌードの夜』(1993)での見えざる者が座る椅子やヒロインの小部屋に飾られたポール・デルヴォー Paul Delvaux 「こだま(あるいは街路の神秘) L'echo (ou le mystère de la route)」を捉えるのと同質の描写、すなわち、無言ながらも饒舌なるもの、無関係に見えて大切なものが秘めやかに、けれど確かに顕現して空間を彩っている。

 ドラクロワの絵画に精通したフランス文学者 寺田透(てらだとおる)が、彼(か)の画家が五十代前半に綴った日記を読み込んでその真情を手探った本に次の記述がある。ドラクロワの表現の特性を解析したものだ。

 「この刺される肉、溢れんとする血、命ある軟いものと硬く鋭い無機物質との闘い、そこに湧きおこるパトス、叫喚、陶酔、上野の西洋美術館でその部分エスキースの見られる「サルダナパールの死」。また、「キオス島の虐殺」「ミソロンギの廃墟に立つギリシャ」「民衆の先頭に立つ自由の女神」など、かれの壮年期までの大作のすべてに見られるものと言って差し支えなかろう。(中略)こういう嗜欲がたやすく変るわけはもともとないのだが、しかし五十代のはじめまで一貫してこういうなまぐさい力への好みが示されるとはやはり注目すべきこととしていいだろう。」(*1)

 また、1850年5月1日の小論文風の日記の内容を受けて寺田は、「もっとも根底的とは言えないにしても、また漠たるものであるにせよ、人間の歴史が不幸な終局に向かっているという意識」がドラクロワに付きまとっている、とも述べている。(*2) 破壊や終末に関する興味や語弊をおそれずに書けば願望なり希求といったものは、なにもドラクロワに限った気質ではなくて私たちにも付きまとう。絵画や映画を目撃したわれわれが「共振すること」がそれの証しである。

 ただ、絵画や映画を手段として、可視的に、持続的に表現しては世間に示していく作家性を持つ者は限られていて、ドラクロワはその一人だという事だ。石井隆はドラクロワに続いて我が名を重ねるべく、自作に先人の絵画を刻み付けて見せた訳である。極めて象徴的な行為といえるだろう。自分もそうだよ、血の作家なのだ、と強靭な宣誓がかくも明瞭に為されている事実は、石井世界を考察してなにがしかの作家論を語る上で外すことが許されない。

 もちろん、「サルダナパールの死」と石井の映画『黒の天使 vol.1』(1998)のディテールには大きな段差がある。片やぎらつく刃(やいば)と毒杯、片や拳銃と拳(こぶし)であるのだし、古代王宮の終焉と薄汚れた麻雀店での乱闘ではそもそもスケールに隔たりがある。大概の観客は『黒の天使 vol.1』に臨むとき、現代日本が舞台としたヤクザものとしか捉えない。

 石井隆の何たるかを知らぬままに爽快な活劇を期待して観始めた者たちは、後になって違和感を抱く羽目に陥るのである。血縁や味方までが続々と弾丸に倒れてむくろとなっていき、血や雨に濡れて累々と横たわる徹底した殺戮に唖然とし、石井が単なるアクション映画を作る気など最初から無かった事にようやく気付く。つまり、石井は「サルダナパールの死」を掲げて見せた上で、明朗な活劇の衣をまとわせながら、争いの終局に普遍的に発生する惨劇それ自体を蘇らせるべく尽力しているのだ。

 人は追い詰められると、愛するがゆえにこそ容赦なくこれを破壊する愚かさを内包し、その愚行の奔出こそが悲劇の神髄なのだ、と、敬愛する先人の絵をそれとなく最初から壁に打ち付けて観客に諭しているのである。

 サルダナパールの王国崩壊につき歴史学上の詳細は分かっていないようだが、紀元前600年より以前であるのは確かだろう。ドラクロワが絵に仕上げたのが1827年、石井隆が絵筆をカメラに替えて仕上げたのが1998年である。二千四百年余りをはるばる飛翔し、さらに百七十年を駆けぬける時間の大跳躍を重ねながら、鮮血と叫喚の記憶を血の作家たちが形を変えて語り継いでいる。

(*1):「ドラクロワ 1847-1852」寺田 透 東京大学出版会 1968 33頁

(*2):同209頁


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