2020年12月31日木曜日

“コード化”~石井隆劇画の深間(ふかま)(6)~



 石井隆が【天使のはらわた】第三部(1979)と【少女名美】(1979)の両篇で描いたふたりのおんな。彼女たちが脱衣する後ろ姿を通じて秘められた心情を裏打ちしたことは、石井作品の繊細さを物語る一例であるが、ある程度の読書なり観賞を続けていれば誰でも腑に落ちる話だ。

 元より総ての物象を動員して登場人物の気魂(きこん)とも云うべきものを定着させんと石井は努めており、脱衣の所作にそれは限ったことではない。たとえば抱擁や性愛の体位といった全身を駆使した表現、髪の毛から指先といった部位ですら切々と歌い上げて止まないのだったし、衣類や装飾品に至る細々したものが「付喪神(つくもがみ)」よろしく訥々(とつとつ)と物(もの)語っていく。石井の劇画なり映画を注視しつづける身からすれば、驚天動地の事件ではない。

 ここで【天使のはらわた】と【少女名美】の各3コマを並べた理由は別にある。「おんなの所作と捉え方、切り取り方は完全に一致している」のだが、このような現象は他の漫画作品内ではあまり見ないと考えるからだ。私のなかで「ちょっと立ち止まって、いったいそれは何だったのだろう」と考えてみたくなる、石井作品に付きものの例の不自然さが感じ取れる。石井のハイパーリアリズムのコマ割りは映画的な時間潮流を生んでおり、読者の視線を先へとうながして時には激しく追いたて、なかなか「立ち止まり」を許さないところがある。作者だって頁をめくる読者の指先を停止させ、悪戯に瞳を遊泳されたいとは願っていないはずだから、私の粘度を帯びた読解を心底嫌がる可能性が高い。最初にしきりと謝った理由はそこにある。

 「それは何だったか」、ゆっくりとこれからを整理しながら書いてみようと思うのだが、漫画を読まない人、その存在を暇つぶしとか子供だましとしか認めない人には妄言にしか聞こえないだろう。私は薄っすらと石井隆の創作世界の核心のひとつに指先が届き掛けている予感を抱くし、そこに近づけば近づく程、石井隆という創り手は世界でも稀有な存在という想いを強くするのだけれど、いつもの誇大妄想だろうか。

 漫画は基本、「コマ」と呼ばれる枠線に囲まれた独立した絵が紙面に並んで配置されるという不思議なスタイルを取っている。冷静に見やれば実にへんちくりんの媒体である。作者の思惑と読者の読み解きが一致したとき、隣り合うコマ内の絵と絵がぬるぬるつるつると連係し始めて、さながら編集された映画を見ているような感慨を我々に与える。

 この作者と読者に共通認識が産み落とされる状況を、四方田犬彦(よもたいぬひこ)は先に取り上げた「漫画原論」(*1)で「コード化」という言葉で上手く表わしている。こちらのコマとあちらのコマの中に違う形、たとえば一方は座り一方は立っている、そんな違った線描で落としこまれた人物画があるとき、衣装や表情から同一人物を描いていると瞬時に認識する「人物のコード化」、また、連続した物語空間であるのか、それとも大きな時間の跳躍が起きたのかを読み説く「時間のコード化」、といった様ざまな連係なり断裂が花火のぱちぱちと爆(は)ぜてきらめくのよりもずっと速く読者の(それは作者も同様に)脳内で起きているからこそ、漫画という本来無機物の媒体がまるで呼吸をし、歩行し、愛を知って歓喜し、悩んで泣き喚いたりして見える訳である。

 コード化の手法は映画やテレビジョンの普及にともない複雑化し、それに読者も食いついて付かず離れずに学び続けたことで漫画表現をより多彩で刺激に満ちたものへと育てていった。映画フィルムの編集にも似たコマの配置はいたるところで見つけることが出来る。私たちはもはや普通に見慣れたものとして大した驚きもなく漫画本をめくっているが、発明に次ぐ発明の末に今のスタイルが成り立っている。

 そんな映画手法を融合させた生い立ちだから、「所作とその捉え方、切り取り方が完全に一致している」、さながら同一に見えるコマの再配置という現象は確かに漫画世界においていくらでも散見出来る訳である。

 ひとつはカットバックの手法である。見る者と見られる対象を交互に並べることで、登場人物の胸中に心的な変化が生じ、それが読者にも感応していく劇的な技法である。その際、対峙する者と者、者と物のコマがぱたぱたと入れ替わるのだけど、先行するコマと後続するコマの構図やタッチが近似する事がたびたびだ。

 たとえばここで引用したのは粟津潔(あわづきよし)の【因果説話 すてたろう】(1972)であるが、取り出した二つのコマは、人物の所作とその捉え方、切り取り方がほぼ完全に一致している。産んではみたものの育てることが出来ないと観念した母親が嬰子(えいし)を脚で押さえつけ窒息させて殺し、その身体を橋の上から雨で増水した河に投げ捨てる哀しい場面を描いたものだ。おんなの眼下を見つめる顔を大きく描いたコマふたつの間に、我が子の小さな身体や眼下の河などが挟みこんである。(*2)

 耐え切れずにおんなははらはらと泣き、頬を涙がつつつと這っていくに従い、2コマ目では唇の端にまで到達しているのだったが、意図しておんなの顔は同一の大きさと角度で描かれている。水のなかに半身を沈めながら下流へと去っていく我が子の姿を息も出来ず、瞬きも出来ずに凝視し続けるおんなの狂気にも似た懊悩と諦観が上手く表現されている。

 【天使のはらわた】と【少女名美】の各3コマはこの【因果説話 すてたろう】のようなカットバックを目的で配置されたものでは当然ない。両作は物語の時間流が異なっているのだし、相手となる男の設定も前者は無頼、後者は大学生であり、おんなの方も女給と高校生であって、別々の空間で暮らす男女なのである。脱衣するおんなも当然ながら「違わなければならない」、本当なら「コード」は違っていなければならない。

(*1):「漫画原論」 四方田犬彦 筑摩書房 1994  
(*2):「悪の愉しみ 現代マンガ選集」 筑摩書房 2020 所載

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