2020年12月26日土曜日

“レリーフされたふたりの巫女”~石井隆劇画の深間(ふかま)(5)~

 人がつっつと脱衣するのは湯浴みの前ぐらいで、それ以外では幾通りもの組み合わせが生じる。何の組み合わせかと言えば、どの衣服を、どの手順で、どのような姿勢で脱ぐかという連結である。

 情交の際の脱衣となればなおさらで、相手にまとわりつかれて加勢されればどんどんバリエーションは増していく。どの程度まで剥ぐつもりか、何処から先に排除するか、順番や速度といったものは親密度、昂ぶりの多寡によって違ってくるし、互いの姿勢はめまぐるしく移行してじっとしない。部屋の何処で行なうかで景色が無限に枝分かれする。仮に人生で千回の行為を為し得た場合、厳密にはひとつとして同じ様相を呈しない。

 良不良、歓喜の度合いは抜きにして、極端な話、服をほとんど脱がずに情を交わすことさえ可能である。冬の寝室で深々(しんしん)と冷え込む夜気を避け、半身を温(ぬく)い布団のなかへ逃げるように包みつつ下穿きだけをもぞもぞと脱いでいく、はたまた脱ぐに至らずにわずかに下にずらして重なっていく体験は誰の身にも起こることだ。

 石井隆は数多くの劇画作品において、情交における脱衣がいかに多彩な顔付きとなるかを示して来た。たとえばある作品での房事において、おんなの乳房バンドは最後まで外されることがない。ハイパーリアルな世界を護持するには、そこまで念入りに演技指導を施すことが必要だったのである。石井の劇とは分枝(ぶんし)していく時間を徹底して追い求め、微細に描き分けることを是とするのであって、想像力と再現力の並々ならぬ持続を自らに強いて表現されている。筆先に宿る執念は、まったく畏しいほどの厚みとなっている。

 さて、「情交における脱衣」ではなく「情交を前提に、相手の手を借りることなく自主的に脱衣する」と行為を絞ってみれば、かなり似通った風景になる。人それぞれの手癖が出るというか、湯浴み前の脱衣場での動きとそっくりになり、半ば自動化されていく。あっさりと流れるような進み具合で衣服は剥ぎ取られていく。

 先述の通り【天使のはらわた】第三部(1979)と【少女名美】(1979)の間には、物語の上で大きな隔たりがあるのだけれど、そこに描かれた脱衣するおんなの描写は極めて近似していて驚かされる。ここでおんなはスカートのチャックを下げ、ストッキングを丁寧に下ろしていく。三つのコマが右から左に時間を追って並び、それぞれの構図はほぼ等しい。その配列のみを抜き出してみれば、背景の浴室扉のノブの有無やスクリーントーン選択の違いから来る布地の風合いなどで区別は付くが、おんなの所作と捉え方、切り取り方は完全に一致している。

 石井によって全然違う人生をあてがわれた【天使のはらわた】と【少女名美】のおんなふたりだが、黙々と服を脱いでいく後ろ姿をもって両者は共振し、互いの胸中を補って見える。男性に無理強いされるのではなく、寛恕の強い思念でもって相手を積極的に抱き止めようとしている。古代文明の遺跡にレリーフされた巫女のおもかげにも似て、物言わぬけれど能弁におんなの自由意志は提示されている。

 石井はメッセージをささやかな脱衣の所作にさえ託そうとしており、それは見事に成功していると思うし、こういった凄まじき芸の細やかさこそが石井世界の醍醐味であって、読む者、観る者のこころを無自覚のまま充足へと導くのである。

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