2020年12月17日木曜日

“結果ではなく”~石井隆劇画の深間(ふかま)(3)~

 石井隆の作品を「因縁(いんねん)劇」と称するとやや語弊がある。与えるイメージを極端に狭めてしまう。血染めの戦国絵巻、あな恐ろしや妖猫奇譚、それとも数世代をまたがる遺産相続ミステリーか。いやいや、そんな大袈裟なものではない、一種素朴な作劇の風土として因縁は幾度も掘り起こされ、随処に活かされていく

 人間がほかの人間に向き合う際に、肺腑の奥まった辺りから湧き上がる興味や親しみ、これに続く台詞の往還と血肉の交流が石井の劇では至極大切に扱われる。ひどく困っているようだな、神仏の加護には遠く及ばないが何か手伝えることはないか、こんな自分でも役立てないものだろうか、と、ふと仕事の手を休めて遠くを見やり、人知れず気を回していく。過去を聞こうとする意思とこれに絆(ほだ)されて昔語りを試みようとする二つの魂の螺旋を成す舞踏が劇の軸芯としてあり、物語全体の歩調なり方角を左右する。

 代表例が『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)や『ヌードの夜』(1993)と続編『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)のいずれも村木という名の男だ。肉欲というより人情が先走り、青息吐息の者に寄り添おうと努めていく。体温を帯びた共振が託されて、きゅっと硬くなったまなざしが物語の地平を貫く。つまり「因縁劇」というよりも、「因縁(過去)を手探る劇」とここは表現するのが適切だろう。

 結末はどうであろう。蜜がつぅっと糸引き垂れる恋情へと結実させるかといえば、ご承知の通りの苦い顛末である。今更にして過去の「因縁」を語ったところで、また、聞かされたところで大方は役に立たないし、下手に動けば状況をますます悪化させるばかりだ。普段わたしたちが実世界で目の当たりにする如く、主人公の多くは奮闘努力するものの大概は報われないままに終わってしまう。

 石井の劇を前にした受け手の視線は、だから往々にして引き裂かれる。過去へ過去へと潜行して因縁を探ろうとする動きと、黒闇(こくあん)の未来へと背中を押されながら突き進む熾烈な展開に振り回される羽目となる。それゆえに鑑賞行為はかなり手強い体験となるのだが、さらにとどめとなるのが紙面や銀幕の最後に石井がめりめりと押し刻んでいく花押(かおう)である。其処に書かれた文字に目を凝らしてみれば、「人間は他人の境遇を救えない」と彫られて見える。なんてこった。

 場内に灯が点ったとき、視聴を終えてモニターを消すとき、私たちは唇を一文字に閉じ奥歯を噛みしめて席を立たねばならない。寂寂として比重がいや増したおのれの心臓や肺を感じ止めながら、さてさて、よいしょ、と誰にも聞こえぬ程に小さい掛け声などして立ち上がる。

 料金を払う観客の権利として穏やかな大団円を求める風潮が昨今あって、ウェブ等で映画作品の感想をつらつら眺めていると、終幕に訪れるほの酸っぱい悲劇描写を由とせず、声高に憤懣を綴るものが目立って多い。こんな結末、酷(ひど)過ぎる、どうかと思うよ、客のことを考えろよ、疲れたよ。そういう感想が在っても良いし全否定はしないけれど、やや短絡に過ぎるとは思う。彼らは多分石井の映画を観劇した後に、さてさて、よいしょ、という小声ではなく、鬼の首を取ったごとく異議を唱えて拳(こぶし)を振り回すのだろう。「因縁を手探る劇」は確かに成就しなかった、骨折り損のくたびれ儲けだったのだから、彼ら一般客がどよめくのは予期し得る反応だ。

 過去のインタビュウが証左するように、石井隆という作家は雑誌の記事や観客の反応を真摯に受け止め、これを飽くことなく反芻する。上のような一般客の反応も当然耳にしているだろうに、そんな石井がどうして「因縁を手探る劇」を、それも失敗に終わる悲劇的結末を繰り返して撮るのか。読者や観客が当惑するのも構わず、次の作品においても空回りする救出劇を描いてしまう。人間は他人の境遇を救えない、無理なんだよ、無駄なんだよ、とつぶやき続けるのは何故か。

 もしかしたら、我々は石井隆の劇を根本から捉え直す時期に来ているのではないか。「結末」ではなく「道程」をこそ、石井が描きたいのだったらどうだろう。未完となる宿命(さだめ)の逢瀬を何度も何度もめげることなく重ねていく人間(ひと)という存在の健気さ、哀しさを謳(うた)いたいならどうであろう。前作の絶望からの復活こそが、つまり「因縁を手探ること」をまた始めてしまう、その「立ち直り」こそ信じたいし最も描きたい訴えではないか。

 作家性という単語に縮約させる前に、ここまで人生を賭して同質の物を描こうとする行為に対して数歩離れてより俯瞰的に、もう少しだけ息をとめて凝視した方が良い。つまり、「連作」という見方を固め、「長大な世界」を黙々と彫り続けている一個の人間として意識すべき段階に来ている。陰惨な絶望を描く者ではなく、実は諦めずに劇に立ち向かっている「希望の作家」として石井を捉えた方が理に適うのである。

 手を伸ばさずにいられぬ男女の内面を連綿と描く作家の行為は、物語上の人物の特性を突き破って作家のそれと直結する。人間の内奥は闇にまみれており、透視することなど他人には出来ない芸当であるが、私たち石井世界を愛する者はその秘密に想いを凝らし、腕の痺れるまで洋燈(ランプ)をかざして良いだろうし、そうする値打ちがある。

 手段として、一般人の目からは奇異に映るだろう瑣末な事象も拡大鏡を操るようにして時に眺めねばならぬ。それが創作者にとってこころ乱される微妙な領域だとしても避けて通ることは出来ない。作品を愛する以外の他意はないのだ。逆鱗に触れたとしても、南無三(なむさん)、寛恕(かんじょ)を請うばかりだ。祈るような詫びるような訳のわからぬ言葉を経文(きょうもん)よろしく綴ったところで、そろそろ腹を決めて本題に移りたいと考える。


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