2019年12月31日火曜日

“十字架を引き抜く”『花と蛇』~生死に触れる言葉(6)~


 独自の美学をつらぬく「現役作家」たる石井隆を、今この段階で語るのは不遜であるし土台無理なことだ。読者には誤解する権利があると書いたのは確か権藤晋だったけれど、翻ってその言葉は読者という立場は大概が誤解する、勘違いする役回りなのだと諭している。

 称賛や解題は各人の体腔にうずくまるばかりで、いつまで経っても肝心な石井隆の今には到達し得ない。批評する側それぞれが石井の劇を反射する鏡となっていて、経年による曇り具合で丸きり違った像を結んでいき、いつだって我らの目にはその歪んだ背中しか映らない。その好例こそが此の場処だ。責任を負わないのを好いことに延々と綴りまくる駄文の堆積は、一個人の鏡面に張り付いたまさに虚像に過ぎない。石井隆に興味引かれて訪れ、読もうとする誰にとっても役に立たないそのような警句と開き直りを刻んだ上で、石井の『花と蛇』(2004) についての強引な妄想をなお勝手気儘に続けよう。

     昂揚した老人は何を思ったか、震える脚で立ちながら
     老人とは思えない力で床から十字架を引き抜き、
     十字架を抱えてゴルゴダの丘を上るキリストのように
     十字架を背負って、
     床に寝かせる。(中略)
  老人「ああ……」
     と、両手両足を括ったロープを必死に解く。
     解放された静子がいとおしむ様に田代老人の股間に顔を埋め、
     体を愛撫する。(*1)

 当初石井が抱いた脚本内のヴィジュアルは上記のごとくであった。完成された映画での老人(石橋蓮司)は半身の自由が利かぬ身体を必死にくねらせて床を這い進むだけが精一杯であって、重い十字架を引き抜く行為など到底出来なかったのだが、石井が希図としていた『花と蛇』という物語が本来懐胎していたのは、明らかに「救出劇」であったことが此処に明瞭に示されている。表層では嗜虐趣味のパーティを装いながら、切実で哀感溢れる思念の漂着が窺える訳である。

 確かに物語は徹底した乱痴気騒ぎだし、その暴虐に耐え切れずに押し潰される一個の人間の魂を描いている。狂人の支離滅裂な幻影そのままの滅茶な展開なのだけど、少しだけ呼吸を整え、『花と蛇』を独立した物語としてひも解くのではなく、一人の作家の、より分かりやすく言い換えるならば「一人の画家の連作の一端」と捉え直すことで違ったものが見えてくるように思う。もの恐ろしい筆致を見定めることが可能となり、受け手を戦慄せしめる囁きがようやくにして聞こえてくる。

 承知の通り、石井隆という作家は私たち現代の孤立する魂に併走しつつ、極めて狭い同心円の劇を丁寧に編んでは解(ほぐ)し、再度編んでは解しながら一反の織物へと仕上げてきた。どちらが縦糸か横糸か分からぬが、一方を名美と名付け、他方を村木と名乗らせることもあったが、そんな固有名詞に縛られるまでもなく、一個の男と一個の女の作り出す、時に濃密な、時に透かしの多く入って儚い風情の布地を産み出し、その上に変幻する文様をさまざまに編んできた。

 文様の柄は常に細かく精密であり、稀に図柄は反復され、はたまた色彩を反転させたりもしながら私たちの目を愉しませたのである。国家や政治、学閥、組織といった巨視的な物語を(やろうと思えばやれたろうに)上手に避けていき、家族の描写(厳密に言えば少々はみ出して手を染める場面もしばしばあったが、)さえ原則控えて、常に目線を「個」と「個」の対局へと絞りこんだ。その本質は、やはり「救出劇」であり、この世に救いはあるのか、人は誰でも救われるのか、取りこぼされる魂はないのか、その後の死とは何であるか、ひるがえって人の生とは何であるか、その辺りに辿りつくように思われる。

 『花と蛇』で石井隆はひとつの境地に至っている。これまで主人公のおんななり男を苦しめるものは「他者」であり、「環境」であり、それ等がもたらした漆黒の過去であった。光明を手探るうちに支援する手が現れ、救出すべく模索が重ねられた。(成功する場合もあれば、失敗に終わることもあった。いや、ほとんどが失敗した。)ところが、『花と蛇』においては、おんな(杉本彩)を苦境のどん底に陥れる者と「十字架を引き抜き」再生と救出を図ろうとする者がなんと同一人物に設定されている。

 不幸の元凶となる者が恋着する相手を奈落へと突き落とし、そこからの救出を臆面もなく膳立てる。個を不幸の境地へと追い落とすのは最も近接したもう一つの個であり、個と個の接近の末路は精神の圧壊と内実のともなわぬことが見え見えの場あたり的な救出劇だと断じたのだった。

 振り返れば腑に落ちるところもある。同じ血筋であっても、ひとつ家に暮らす者同士であっても、互いが「個」である限りにおいて隣接する存在を不幸へとやがて叩き落とす未来を予感して怯えながら暮らしてはいないか。逆上にまかせて完膚なきまで袋叩きにし、その癖に突如手を伸ばしてその場をえへらえへらと取り繕う。それとも内実を遂に語らず、なにも尋ねず、受容と冷淡を履き違えたままで言葉少なに日常へと帰還する。

 どうしようもないマッチポンプを互い違いに演じながら、寄り添う個と個が衝突と修復の模索をし続ける。解放されるにはどちらかの生が尽きるか、壊滅的な終幕に至るのを待つしかなく、意気地がないから自死も突き詰めた衝突も何も出来ない我らは、遣る瀬無い年を越え、さらなる遣る瀬無き日々へと牛馬のごとくのろのろと歩んでいく。そんな実感を抱えるのはこの私だけだろうか。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)、『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)と、そこに我々は名美や村木といった存在の残照を見出すのだが、石井は『花と蛇』において村木に代表される「救い手」という存在にまったく絶望し、その地位を剥奪してしまったように私は見る。あんなにも夢うつつの空間に仕上げていながら、『花と蛇』の本質は恋情や浪漫の徹底的な拒絶なのである。隔絶された夢幻空間を延延と映しながら、その実、石井は極めて冷徹で現実に即した人間関係の末路を描いている。

 『花と蛇』とはそこまで無惨な手厳しい諦観の劇なのであって、女優の姿態がどうとか嗜虐遊戯がどうといった表層の道化に笑っておられぬ、極めて重大な生死(しょうじ)に関わる分水嶺となっている。

 (*1):『花と蛇』準備稿 シーンナンバー84 円形コロシアム(数日後)

2 件のコメント:

  1. このような日々にこそ、見入ってしまう画像ですね。
    お元気でお過ごしでしょうか?

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  2. 元気です、そちらはお元気ですか?良い聖夜をお過ごしください。

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