2019年12月31日火曜日

“磔刑図”『花と蛇』~生死に触れる言葉(5)~


 石井隆の映画『花と蛇』(2004)に接する態度はどうあるのが望ましいか、今もって判断に迷う時がある。あれ程世間を騒然とさせ、まとまった観客動員を誇った割に積極的に感想を綴る人が少ないのはたぶん似たような迷いを抱いている結果だろう。声に出されぬ限り、他人のこころを完璧に推し量る術はない。ゆるやかに互いの距離を置くより仕方ないけれど、さて、振り返ってこの私は『花と蛇』につき何をどう書き遺すべきだろう。

 作り手の思念の海に潜って深淵までゆるやかに降下し、静謐な砂地に着底するのが受け手にとっての醍醐味という気がするのだが、『花と蛇』を愛でる時間というのは脳内の使用領域が最初からどうも違っていて、うまく単語が浮上しないというか、あれこれ喋るのが野暮な気分にさえなる。沈黙こそが最良の賛辞といった趣きがある。

 美術館の回廊で絵画と対峙する時間、大概において私たちは言葉を持たない。「ああ…」とか「ううっ」とか「きゃあ」くらいは口にするかもしれないが、色彩や構図を入念に見定め、その場で解説風に単語をひり出すことは普通しない。音楽も同じ次元だろう。自発的に演奏会まで足を運んで曲の調べと奏者の妙技を愉しむとき、我らの脳味噌は文章を綾織ることをさっさと放棄し、音曲のしずくが耳郭にねっとりと沁み込むに任せる。観賞の場においては誰にとっても感覚こそが優先され、失語症に陥るのが常である。石井の『花と蛇』という映画を仰ぎ見たとき、あんな風にして一切考えずに真向かい、女優のめりはりある素肌にひたすら見惚れていれば良いのであって、そこで屁理屈を並べても詮ない気持ちが強く湧いてくる。

 近頃の脳科学研究を紹介する記事をつらつら眺めれば、私たちの頭は性愛の描写を前にすると直ぐに活動が減じることも分かっている。(*1) 銀幕に狂い咲いた情欲の花弁に陶然とし、男女交合図に口をふわっと開けて思考を全停止させ、ただただ無我の境地に成り果てればそれで良いのだ。

 『花と蛇』の公開前後には雑誌がこぞって取り上げ、毎週どこかの誌面がきつく縛り上げられたおんなの裸身に頁を譲り、世間を激しく煽りまくった。大半は女優の肌や姿態を見世物的に取り上げたグラビア頁が主だったが、映画という媒体が具える異界感や突破感を極限まで増幅し、劇場での観賞希望者を次々に増殖させた。宣伝の目的には十二分に適い、興行を成功へと導いていったが、銀幕に照射さえる光に集まった私たちは水銀灯に突進する甲虫さながらで、思考を失っているところが少なからず有ったように思う。風に玩ばれる川原の葦のように抵抗することなくやんわりと弛緩し尽して、前後左右に意味もなく揺れていれば実はそれが最も洗練された客の相貌なのだ、そう割り切って、銀幕にぽつねんと映される裸のおんなを幾重にも取り囲んでいった。石井隆の『花と蛇』とはそういう麻痺機能を持つ一面があった。

 されど、と、天邪鬼たるもう一人の私がやはり強引に割り込んでくる。石井の多層な世界は一辺倒な解釈を許さない。分かったと思った瞬間に大切な何かを取り逃がす。画布の裏にまるで違う絵を描くのが石井という画家のとんでもない特長だから、早々に思案を止めて無下に取り扱うことはとても危険だ。

 そろそろ本題に入れば、映画『花と蛇』には脚本を読む事でようやっと見えてくる景色がある。手前勝手な焦燥に背中を押されるまま、ここから先は記してみたい。公開当時から今に至るまで専門誌に掲載されることがなかった当該脚本であるから、これを読んで石井隆版『花と蛇』と直結させ得た観客はごく少数であって、当時の制作関係者や一握りの評論家、それに粘着度の高い私のような好事家だけである。

 野暮天と笑われるのを覚悟で書くのだけれど、石井隆の『花と蛇』は絵画に捕り込まれた一個の魂の顛末を描いていて、構造的な段差は少しあるにしても、サルバドール・ダリを招聘して彼の絵画世界に捕り込まれるヒッチコックの『白い恐怖』(1945)( *2)であるとか、ゴッホの絵の中をさ迷う黒澤明『夢』(1990)(*3)の「鴉」であるとか、最近ではドラクロワの「ダンテの小舟」を再現したラース・フォン・トリアーの『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)(*4)といった作品を側において語っても良いはずなのだ。

 物語の冒頭近くのト書きに以下のように書かれてある。石井は結果的にこの場面をすっかり廃棄してしまったので完成された映画には登場しないのだが、その後、中盤以降で闇組織にさらわれたおんなが責め苛まれる幾多の場面の雛形としての明確なビジュアルが示されている。

     『女王と二人の女戦士』と題されたその画は、良く知られた
     アントネロ・ダ・メッシーナという画家の、『二人の盗賊に挟まれた
     キリストとマリアとヨセフ』と題された磔刑図を模して描かれていて
    (中略)左の女戦士は全裸に近い姿で後手に括られたような姿勢で脚を
     広げられ、右の女戦士は弓反りに吊るされていて、三人の顔は恍惚に
     のけぞっている様だ。(*5)

 廃棄されたカットであるから、私たちは『女王と二人の女戦士』という絵を目にする機会は無いのだけれど、元絵となったAntonello da Messina (1430–79)の磔刑図Crocifissione を傍らに置いて夢想することは許される。

 劇中で石井は、女優の肉体を執拗に十字架に縛り付けている。縛る部位を替え、姿勢を微妙に変えて何度もその絵面を変転させている。その異様とも感じ取れる執拗さに観客は戸惑いつつ、嗜虐趣味の枠組みとして、つまり劇中でおんなを拉致し、ひたすら加虐行為を連鎖させて飽くことのない闇世界住人の人間離れした無限の肉欲の為せる結果として納得するのだが、実はメッシーナの磔刑図に見られる中央および左右の罪人三様の忠実な再現を試みた痕跡なのだと解されていく訳である。

 水平方向に伸びた両腕、柱に沿って伸ばされた細い脚を持った中央の聖人像は、異教徒である私にも目に馴染みであるのだが、共に処せられた左右の盗賊の姿は痛ましくも胸に迫り来る。ここには激しい苦痛と生命のあがきが注入されていて、鑑賞者の眼を深々と射抜いていく。石井が再現に尽力し、その上で何がしかの境地へ到達しようと心を砕いたのは中央の聖像ではなく左右の「後手に括られたような姿勢」と「弓反りに吊るされ」た人体であるところが特異であり、見逃せない点と思う。

 論文の執筆において、その著者は一切批評を許されず証明できないような感情論や主観的な内容は含んではいけないというルールがあるらしいから、この文章は完全に説得を書いた素人感想でしかないが、この瀕死の罪人の様子を現実の人体によって徹底再現しようとするところが石井隆という作家のまなざしであり、真髄ではなかろうか。その指摘と玩味は道理を外れていないのではないか。

 左右それぞれの罪人を同じ比重で再現しようと努める辺りに、独自性が垣間見られる。過日読んだ小池寿子の「描かれた身体」(*6) によれば、向かって左側の罪人はデュスマス(またはディスマス)と呼ばれる「良き右盗(うとう)」であり、聖人の存在を信じて天国に招かれた者として伝えられ、私たちからは右側の柱に磔なって見える男は聖人の存在、神の奇蹟を最期まで否定したまさに救いようのない男らしいのだが、小池が解説で使用した1420年代の絵画、ロベール・カンパンRobert Campinの「磔刑の悪しき罪人」の姿は「後手に括られたような姿勢」であり、メッシーナの磔刑図では「良き右盗」と同様の形をとっている。

 左右の罪人に関する伝聞は少なく、様ざまな形態のあったらしい磔刑のどの形を取ったのか、宗教画家たちはそれぞれ自分たちで仮定するより仕方なかった。石井は左右それぞれの形、「後手に括られたような姿勢」「弓反りに吊るされ」た姿を女優に交互に丹念に演じさせながら、善悪の境界をあえて曖昧にしている。見る角度が違えば誰もが善人にもなるし、その逆にもなるという石井の劇を貫く両義性をここでも私たちに示している。罪人である自覚を前提としながらも、善と悪との間にトンネルを穿ち、血流を共有させて「人間」の多層を描こうと奮戦している。

 メッシーナの絵画の背景に広がる陽光とのどかな丘陵は削ぎ取られ、『花と蛇』で磔(はりつけ)なったおんなを漆黒の闇と雷光、無情の雨が包みこむ。天を仰いで喘ぐその目は救済を訴え続けている。そこに肉の戯れや歓びはほとんど見出せない。私たちは『花と蛇』の突飛な景色に声を失い、石井世界とは別個のもの、団鬼六の原作に覆われ尽くした特殊な狂騒劇と捉えがちであるのだが、石井は決して手綱を離すことなく、おのれ自身を唯一のパトロンにして伽藍の建造を続けているのである。

(*1): GIGAZINE「性的な動画を見るとあなたの脳の一部はシャットダウンされてしまう」2012年07月15日 23時00分
(*2):『白い恐怖』Spellbound 監督 アルフレッド・ヒッチコック 1945
(*3):『夢』Dreams 監督 黒澤明 1990
(*4):『ハウス・ジャック・ビルト』 The House That Jack Built 監督 ラース・フォン・トリアー 2018
(*5):『花と蛇』準備稿 シーンナンバー7 遠山がオーナーの画廊(神宮前・午後)
(*6):「描かれた身体」 小池寿子 青土社 2002 







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