2019年6月15日土曜日

“二等辺三角形”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(1)~


 萩原健一と内田裕也、強烈な個性に彩られたふたりの俳優が相次いで亡くなったことを受け、映画専門誌「キネマ旬報」が追悼特集を組んだ。(*1) その扉絵を石井隆が描いていることを知ってファンはざわめき、書店に走って対峙する時間を持った次第である。雨に濡れた情感あふれる絵、見た瞬間に石井隆の絵だと分かる、度肝を抜かれた、そのものがまるで映画のよう、拓かれたのは正にスクリーン、二人をスクリーンに甦らせるなんて何て痺れる弔いか(*2)。そのような反響がすぐにウェブ上にきらめき、はげしく瞬いた。

 わたしもその一人であったのだが、同時に石井隆のひさしぶりの「一枚絵」に強い関心を惹かれ、しばしの時間、思索にたゆたう成り行きだった。ここ数年、過去作のDVD再発売の際に、石井はパッケージ画の提供を要請された。雨雲を呼び込み、濡れた絵画を幾つも描いている。無数の滴(しずく)と、とぐろ巻いてもわもわ漂う硝煙が紙面を埋め、濡れた肌と髪が妖しく照り光った。むせび泣くがごとき秀抜なこれ等“役者絵”に遭遇してその都度戦慄の時間を持った訳なのだが、今回の扉絵ほどは考え込むことはなかった。

 役者の表情を定着させている点において、ここ数年来石井が挑んでいる肖像画や劇中場面のコラージュと似た面持ちではあるのだけれど、そこに留まらない真剣味が染み出て感じられた。創作活動の初期段階で石井は、どう受け止めて良いか分からない摩訶不思議な一枚絵を射出することが度々あったが、あれとどこか通底していて、軽々しく頁を閉じ日常に舞い戻る訳にいかなかった。

 何よりも瞳が吸い寄せられたのは、涙をひと筋流している色香あふれる萩原の顔でもなく、あぶら汗なのか雨なのかそれともその両方が混じったものなのか、たっぷりとした液体の筋が額に溜まる様子がいかにも剣呑な内田の顔でもなくって、その両人に挟まれて立つおんなの背中、いや、もっと絞り込んで言えば彼女が装着しているコートの下半分、腰のあたりがヨットの帆みたいに風をはらんで膨らんでいる様子である。

 はたしてここまでコートの裾(すそ)は鮮やかに広がるものであろうか。服装に無頓着な私はトレンチコートを購入したことがない。大概がベルト辺りまでのジャンバーであるのだし、冬の盛りに厚めのロングコートを着ても、戸外ではボタンやジッパーをあらかじめすべて締めて完全防備し、ああ、いやだ、寒いのはいやだ、雪の降らない街に引っ越したい、と恨み言をつぶやきながら背中を丸め、厭々と、のそのそと歩むばかりだ。薄手のお洒落な外套(がいとう)を羽織り、肩で風切って街路を突き進む場面など皆無だから、その辺の衣服の特性がまるで分からない。

 トレンチが一世を風靡した時期の外国映画を懸命に思い出そうとするが、こんなに綺麗に広がる様子を思い出せない。確かにゆらゆら、さわさわと裾が舞い踊ることは普通にあるだろう。たとえば、石井が脚本を担い盟友池田敏春が監督した『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)は凍てつく季節を舞台としており、観賞中に頬のあたりが涼しくなる具合だったけれど、そのなかで主演女優がコートの裾を揺らめかせ、寒気に抗して歩く場面がとても印象深かった。それでもこの絵のようには決して広がらなかったように思うが、はたして記憶違いだろうか。単にわたしの経験値の低さがそんな連想に誘うものだろうか。

 ここには絵描き石井隆の自由で大胆な筆の運びが認められるし、読み手である私たちに無言のうちに伝えようとするものが潜んでいる。つまり、良い意味での“不自然さ”があって、活発な思索と創造の痕跡としてどうやら提示されている。

 思えば一枚絵だけでなく、劇画についても常に“不自然さ”は在りつづけた。石井劇画の作風はこれまで何度か変化を遂げているが、初期作であれ中期の作品であれ、独特の“不自然さ”が時にハイパーリアリズムの劇中に出現して私たち読者の目と感情を深々と貫いた。何だろう、変だぞ、何て描写だと息を呑ませ、コマの上での滞空時間を引き延ばされ、さらなる凝視を余儀なくされるのだった。胸の奥にいつまでも貼り付いて煮こごる具合となり、反芻と咀嚼を何度もうながした。安易に読み捨てることを躊躇わせ、他の扇情主体の劇画群とは別次元の解釈を強いてくるのが常だった。

 たとえば【紫陽花の咲く頃】(1976)で夜道を急ぐおんなが急襲され、背後から男に抱きつかれた一瞬におんなのスカートが不自然なぐらいに裾を延ばす様子であるとか、【闇が降る】(1983)で暴行を受けた後のおんなが気落ちする自分自身を奮い立たせるべく激しく頭(かぶり)を振り、髪を直線状にたなびかせる仕草であるとか、石井の劇には物性を超越してひどく歪んだり広がる物が散見されるのであって、今回の極端に広がって二等辺三角形を綺麗に形作るコートも、たぶん、その特徴的な現象の一環に置かれている。

(*1): 内田裕也 2019年3月17日死去、萩原健一  2019年3月26日死去
「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019
(*2):いずれもtwitterより




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