2017年9月18日月曜日

“戦争の惨禍”~【魔樂】推想(1)~


 靴を履こうとしていたら、携帯電話が急にけたたましい警告音を発した。カバンを置いて居間に戻り、開いていた窓に手を伸ばして雨戸をがたがたと閉め直す。カーテンを引き、薄オレンジ色の電燈を灯し、隣りの台所との間にある仕切りの小窓も閉める。同居する者たちが口々に不安を訴えながら集まってきて、ソファに皆が座ったところでテレビジョンのスイッチを入れて飛翔体の通過するのを待った。

 迷惑な事とは思うが、これが本当の世界の実相なのであって、今までがどうかしていたのだとも感じる。地中海では何千もの移民が溺れて海底に沈み、産油国での紛争は日々絶えない。特にウェブを介して中東シリアやイラクでの民族浄化を目的とする殺戮の場景、そのあまりにも絶望的な現場をこれまで沢山見てしまったのがいけない。平和なんて束の間の幻影に過ぎないという、ごりごりした固いしこりに頭が侵されている。

 夏の終戦特集で放映されたインパール、満州国、樺太、広島、ベルリン、ポーランドでの、人体を挽き肉用のチョッパーに無理矢理かけるような棄民と処刑の伝承、人身御供にされた犠牲者の証言なり再現映像を見ていると平和な生活が磐石などとは到底信じられない。残念ながらいつか卵は割れ、どろどろの黄身が床に流れ落ち、あっという間に腐臭で周囲は満たされるに決まっている。のんびりしていられるのも今だけだ。

 石井隆の【魔樂】(1986)の頁をめくるたびに似たような臭いが立ち昇り、鼻腔を突かれた具合になってつい怯えてしまう。性犯罪の域を大幅に越えて、石井は「戦場」に近しい荒ぶる場処を描いているのではないか。殺人鬼の男がわざわざ迷彩のほどこされたズボンに履き替え、偽物ながら重火器を携えて被害者に最初迫ったところも、何かしらの作者の意図が込められている気がする。

 【魔樂】の前身となった【魔奴】(1978)が、連載誌の性格(嗜虐的性向をテーマに絞った編集)を越え、極限の愛を誌面に刻んでいったように、続く【魔樂】だって表面を流し見するだけでは透視し得ないものが付帯されていて当然だろう。そもそも石井隆とはそんな霞掛かった作り手であって、大概の読者は走り去ろうとする彼の背中をかろうじて凝視めるのが精一杯だ。表情なり眼光を覗うことがなかなか難しい。

 戦場を想起させる理由は他にもあり、実は【魔樂】を眺める時どきに常に思い出されてならない連作版画がある。石井が一度も言及したことがないから妄想でしか多分ないのだけど、フランシスコ・デ・ゴヤ Francisco de Goyaの「戦争の惨禍 Los desastres de la guerra」(1810-20)とイメージの連環がある。

 欲望に裏打ちされた異常犯罪の画像や書物をいくら探して眺めても結線しないのだが、このフランス軍によるスペイン掌握に前後して起きた衝突や民族蜂起といった大混乱を題材とした連作を眺めていると、いつしか石井の描く無惨絵と頭のなかで重なり、地平がきれいに連なってしまう。衣服を剥がされた裸の男の両脚が左右に強引に押し開かれ、股間の一物をめがけて兵士がサーベルを突き立てている場面や、手のひらを差し出し制止を訴える兵士に対して斧を高々と振り上げる男の姿を見ると、【魔樂】のあれこれの場面が二重写しとなる。

 無情、諦観、武器を振りかざす者への嫌悪感がむらむらと、鼠の死骸の下から湧いてくる赤い蛆みたいに際限なく、どこまでもどこまでも噴きこぼれる。公平と言われる世の中でありながら、草むらや都市の死角に引きずり込まれ、救けを必死に求めながらも誰も応じてくれず、苦痛と悲鳴にまみれて傷つき死んで行く弱き存在の今この瞬間にも大勢居ること。その現実を見ようとせず、語ろうとせずに、空々しい歌や笑いに逃避するばかりの世相に対して、ただただ暗然として深くうな垂れてしまう。

 こんなおぞましい人殺しはフィクションだと君は思うだろうけどさ、ひと皮剥けばそれが普通なんだよね、素顔の世界ってそういうものだよ、と、遠くを駆けていく石井の背中が小声で語っているように思う。






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