2017年9月17日日曜日

“讃美者でない真の理解者”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(11)



 石井隆が【魔奴】(1978)に挑んだ契機として、1977年に西武美術館で開催された「月岡芳年の全貌展」がさまざまな形でかかわっているとする想像はどうだろう、あまりに奇抜過ぎるだろうか。パンフレットの中には、芳年と“劇画”とを紐づけした一文も見える。

「文学史を少し遡って、明治二、三十年代迄に幼少年期を送った近代作家達にとって芳年は、彼らの日常と切り離せぬ、生活と密着した絵師であったと考えられるのである。いや絵師などという時代がかった肩書きを用いる以前に、新聞、草双紙の挿絵画家であった彼は、流行のイラストレーターや、今だポンチ絵が普及していなかった当時の少年達にロマンを与える劇画家、つまり現代の横尾忠則や白土三平(しらとさんぺい)にも通ずる存在であったということが出来るだろう。」(*1)

 ここでいう近代作家とは谷崎潤一郎や芥川龍之介を指す。芳年を当時隆盛を誇った劇画とくっつける点が世相を反映して見えるけれど、白土の名がぴょこんと挙がるだけでそのまま収束してしまったのは実に惜しい。さらにこの寄稿中には、現在(70年末)への影響と継承をめぐって次のような件もある。

「我々が現在、浮世絵師芳年の名を耳にする機会が稀であるのと同様の理由で、三島を除いた「現代作家」と呼ばれる人々の間に、芳年の影響を問うことは、かなり難しい課題といえよう。」(*2) 「近代の先駆となり、無惨な礎ともなったこの近世の末路を振り返ることから芳年の存在を見つめ直す時、そこには、三島由紀夫の如き特殊な意味での讃美者でない真の芳年理解者が生まれ、そこから芥川と芳年の如き現代作家と彼との関係が成り立ち、新しい現代文学の可能性が開かれてくるのではなかろうか。」(*3)

 このパンフレットを石井が手にしていたとしたら、相当に気持ちはざわめいて血圧は乱れたことだろう。時代を彩る劇画界の巨星として自他共に認める自身の影に一切触れられないだけでなく、芳年の後継たる“新しい文学”の出現を強く希求して文章は閉じられている。日本文学の研究者が寄せたものだから仕方ないのだが、絵の後継は本来、文学ではなく絵ではないか、芳年が幕末から明治にかけてイラストレーターや劇画家として君臨したのなら、跡を襲う役割は当然ながら劇画家たちであるのが筋だろう。

 もちろん絵画は時代を越えて発光し続け、後世の人たちの感懐を誘って何がしかの力を及ぼすものだから、芳年が文芸の進む方位を変える事は起こり得る。それは了解されるが、芳年は唯一無二であり、継承する劇画家やイラストレーターは生まれ得ないとも受け止め得る文末はもどかしさを覚えるところだ。

 石井は1986年、【魔奴】の製作後およそ八年を経て【魔樂】を発表する。例によって独特の多層世界となっており、一筋縄で行かない作品ではあるけれど、月岡芳年の諸作品を受け止めた石井が自分なりに真摯に取り組んだ「無惨絵」を中軸に捉えている。

 舞台は不規則に客が入退出を重ねるモーテルではなくなり、「東京の街から高速で北に二時間、さらにそこから一時間余りオフロードを入った山奥に」ある一軒の廃屋となった。つまりは周辺に人影ない、樹海の海に浮かぶ孤島めいた“ひとつ家”の性格を“不自然に”強めている。男は次々に女性をさらっては遠路はるばるこの廃屋まで苦労して連れていき、そこで無残で血みどろの殺害を繰り返すのだった。

 殺害の手法はいくつかあるが、最も象徴的に使われるのが斧だ。刃先の形状からすると「万能斧」と呼ばれる65cmから70cmほどの物のようだが、緊縛して自由を奪った女性の身体に向けて、思い切り振りかぶって容赦無く撃ち下ろす。卓越した筆さばきで延々とコマを連続させ、おんなたちの絶命に至る様子をこと細かに描いて見せるのだったが、時折挟み込まれる二頁にまたがる見開きでは万能斧が衝撃音と共に肉体に食い込んで血がしぶき、事もあろうに赤インクも使った二色刷りの誌面さえ提供している。無抵抗の白い肌から鮮血がぶしゅっと噴き上がり、天井方向にまではね飛ぶ。読み手のこっちまで息が止まり、斧で殴られ脳震とうを起こした具合になった。

 石井の作歴やインタビュウでの映画愛、絵画愛、役者への憧憬といった言動を知らずにこの列を為す常軌を逸した殺戮の図だけ見たら、十中八九の確率で誤解を生じるのは間違いない。実際この【魔樂】についての識者や読者からのコメントは少なく、内容も言葉少なで要領を得ない。触らぬ神に祟りなしと決め込んでしまったか、熱心な石井の読者でさえも沈黙しがちである。暗渠を流れる水銀のような、冷たく硬質の面持ちで劇画世界に【魔樂】は潜行していく

 単行本となった際に石井が巻末に記したあとがきも混沌を後押ししたように思う。作品を覆う気分をいくらか“盛って”綴った文章であり、それを真に受けた読者は石井が(*4)重い躁鬱病に罹ったのではないか、頭がどうかしている、【魔樂】は狂気と悪魔崇拝が支配した相当にやばい作品と思うだろう。石井の作歴を俯瞰すればそんなことは決して無いのであって、直ぐその後にロマンティックな【雨の慕情】、【雨物語】、【赤いアンブレラ】(共に1988)などが甘い雨滴をともなって描かれ、『月下の蘭』(1991)、『死んでもいい』(1992)といった監督業にも乗り出している。

 無惨絵を会得した石井がこれを強調し、計算を尽くして描いてみせたのであって、渦巻く狂気に翻弄されて勝手に筆が走った訳ではない。先人芳年が敷いた鉄路を正当な若き理解者として名乗りを上げた石井が、意識的、ある意味、露悪的に綱渡りの要領で歩いてみせ、無言ながらも闘志を剥き出しにして取り組んだ作品である。

 上の研究者は白土三平の名を上げた際、そこに白土の忍術ものに散見される残酷描写の連想があったのだろう。血みどろの絵であることの共通性をもって両者を繋げた訳だけれど、芳年の無残絵の後継に白土劇画が立たないのは明らかだ。【忍者武芸帳 影丸伝】(1959-62)における死闘で手足を徐々にもぎ取られ、四肢を完全に飛散させて息絶えていくおんな忍者、明美や蛍火の末期の様子は芳年と似て胸に迫るけれど、紙面に充溢する風景が違う。複数の忍者が罠を張り取り囲み、孤立した相手を襲撃するなぶり殺しの図であって、芳年が描き、石井が継承した“個”対“個”の破壊劇であるとか、逃げ場のない“ひとつ家”感であるとか、“地獄を描くことによって「救い」を描く”という部分が欠落している。

 年少の時分に理容店で順番を待ちながら読んだ絵に心臓を射抜かれ、網膜に焼き付いて頭から振り払えなくなり、その理由を自らに問い続けながら人生を賭して血みどろ絵に向き合っていく。もの凄い集中力と勇気と思う。人の世の裏側には血脈以上に濃厚な系譜がある。血しぶきを浴びた者のみが辿ることを許される、長く冷たい鉄路がある。

(*1):「大蘇芳年と近代文学」 神田由美子 「月岡芳年の全貌展 最後の浮世絵師 最初の劇画家」 西武美術館 1977 
(*2): 同
(*3): 同
(*4):芳年のように!



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