2017年9月12日火曜日

“最後の浮世絵師 最初の劇画家”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(10)


 【魔奴】(1978)の制作にあたって芳年の絵、特にその無惨絵の継承が図られたと考える根拠は、芳年の再評価と個展開催の時期と【魔奴】の発表が重なる点だ。以下は「月岡芳年画集」巻末にある略年譜から拾った。

昭和四十八年(一九七三) 七月、高橋誠一郎コレクションによる「明治浮世絵展」がリッカー美術館で開催され、清親、芳年、国周が展示される。
昭和五十一年(一九七六) 二月、幔幕絵発見記念の「一魁斎芳年展」が東京の大阪フォルム画廊で開催される。九月、「月岡芳年展」が京都新聞社主催で、京都大丸で開催される。
昭和五十二年(一九七七) 七月、「月岡芳年の全貌展」が西武美術館で開催される。(*1)

 芳年ひとりに絞り込んだ展示会は1976年より始まり、400点もの秀作を集めた翌年の全貌展において世間の反応は沸騰している。そもそもこちらの画集自体が西武美術館での個展の反響を経て出版されたものだし、先述の横尾忠則の小文を載せた古い美術誌の特集にしたって全貌展の開催に合わせて編まれたものだ。石井隆の【魔奴】はこの盛り上がりの直後に描かれている。

 全貌展のパンフレットの墨色に染まった幽玄な顔付きの表紙をめくれば、最初に目に飛び込むのが「最後の浮世絵師 最初の劇画家」(*2)という副題である。これを手にした石井の衝撃とその後の発奮というのは、考えてみれば至極当然なことではあるまいか。前年1976年に【おんなの顔】、【街の底で】、【紫陽花の咲く頃】、【水銀灯】、【赤い教室】、【蒼い閃光】、【白い汚点】と傑作を次々に発表し、長期連載の【天使のはらわた】をいよいよ始めた劇画界の寵児たる石井の眼前に、芳年が“最初の劇画家”として紹介されたわけである。彼の存在を身近に感じると共に、劇画とは何かを考えさせられる契機となっただろう。

 以前書いたように石井と芳年の遭遇はずっと早い段階にあって、おそらく1950年代の終わりか60年代のごくごく浅い時期であり、馴染みの理髪店に置かれていた今風に言えばパートワークに当たる「傳説と奇談  日本六十余州」に使われた「奥州安達ヶ原ひとつ家の図」が最初であった。以来、芳年は石井にとって興味ひかれる絵師となっていく(*3)  全貌展で石井が実際に目にしただろう幾つか、妖魔や武者を描いたものは既に「傳説と奇談」の中で見ていたはずだが、血生臭い無惨絵をまざまざと瞳に焼き付けたのは多分この時期に集中しただろう。石井世界にあって“不自然”さを付随させた【魔奴】という中篇は、石井の内部に黒い波が押し寄せて走った一種の亀裂だった可能性がある。

 誤解してはならないのは、石井が芳年の無惨絵にむざむざ浸食され、ひれ伏した訳ではないという点だ。画風や物語の様相が残虐一辺倒へと雪崩打つように変化してはいないのであって、むしろ石井が芳年の無惨絵をすっかり消化し、自身の劇画をより深化させている。芳年ブーム以前の【紫陽花の咲く頃】、【水銀灯】、【蒼い閃光】といった作品においても肉体は傷つけられ、血の塊がぼたぼたと落ちていたから、芳年を見てようやく血に目覚めたわけではないのだ。ただそれら全貌展前の人体殺傷の表現は、ヤクザ映画に見られた刃傷沙汰なり、舞台や時代劇に描かれた切腹の再現にするりと収まり、いくぶん定型に陥っていたように感じられる。

 手首や下腹部が真一文字に斬られる様子は痛々しく仰天させられたけれど、調和的というか観念的というか、どこかで見たような気もする刃先と傷口が露出して見えた。沈鬱な空間に手招きされた読者は乾いた石鹸のようにこわばった表情でひたすら頁を繰ったけれど、とめどなく溜め息が漏れ続けても呼吸が止まることはなかった。

 【魔奴】以降の石井作品、劇画に限らず映画の演出でもそうだけど、傷つけられ殺められる肉体描写はより突発的となり、読み手の想定を大きく逸れたものとなった。どこをどのようなタイミングで傷つけられるかを被害者も目撃者も予想できず、痛覚の伝達よりも先に、当惑、不可解、悲哀といったものがもぞもぞと蠢き、その後で恐怖と苦痛にのたうち回った。

 【雨のエトランゼ】(1979 )の墜死とその目撃、【その後のあなた】(1980)での頚動脈の裂傷、【黒の天使】(1981) にて針で貫かれる眼球、腹部から突き刺さり背中まで至る改造三脚、強く握りしめたナイフからしたたる鮮血、【愛の行方】(1980)での無言の強襲、『GONIN』(1995)のドア底の隙間からの弾丸射出と臀部銃創といった血の景色に最初に出会った時を思い返すとき、我が目がまるで信じられず束の間の呼吸停止があった。傷付けられること、命を奪われることは完全に不意討ちに近づき、狙われる部位は定まらずに身体も心もまったく守りようがないのだった。調和など一切なく、不穏さが増した。暴力と死が暴れ狂って思考が瞬時に凍りつくようになった。石井の劇は加速度をつけて現実味を増したように思われる。

 美術評論家は絵画と劇画を別次元と捉えるのだろうが、わたしは芳年の後継者として石井隆がこの世に在ることを信じるし、それはこの上なく普通の事と捉えている。

(*1):「月岡芳年画集」 瀬木慎一 講談社 1978 略年譜 139頁
(*2):「月岡芳年の全貌展 最後の浮世絵師 最初の劇画家」 編集 瀬木慎一、高橋誠一郎  西武美術館 1977
(*3): http://grotta-birds.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html



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