2017年7月25日火曜日

“「魔」の共時性”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(3)


 独り合点に陥っていないだろうか。急に怖くなって、もうかなり遅い時間だったけれど『ヌードの夜』(1993)を観賞した。齢とともに感興のオンオフなる部分は違ったけれど、今もって一瞬たりとも目が離せない。傑作と改めて思う。特筆すべきは住居やホテルといった室内場景のリアリティであって、どこからどこまでがロケーションでどこからがセットか皆目分からない。単に美術陣の妙技の結果というだけでなく、演出と演技も加わって相乗効果をもたらしている。風景画家の石井隆らしい、隅々までペン先が入った作品と思う。実り豊かな場面が鎖状に連なりあざやかに展開して、観終えた後の充足感がもの凄い。

 『ヌードの夜』(1993)と続編『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の2本を収めたボックスが2014年に発売され、付録の小冊子において石井はポスター画に関して打ち明ける。轍にはまった具合に私がじたばたしていた部分の答えを、何のことはない石井自らがあっさりと語ってみせるのだった。「結果、描けたのは、ラストに次郎さんの事務所を訪ねて来る黒のワンピースで振り返る幽霊の名美。顔は余さんというよりは、劇画の名美。今回のBOXのイラストは後日描いた別バージョン」(*1) 

 なるほど『ヌードの夜』を観直してみれば、画角に違いはあれどポスターの絵と相似する場面があって、それは淫雨に霞む屋外ではないのだけれど、わびしく掃除機などかけている男の部屋にくぐもった雨音とともに突如来訪したおんなの背中なのであり、黒いワンピースなのであり、白い頬であって、石井はこの風景を網膜に刻んで絵に起こそうと願った、描かずにはいられなかった事が読み取れる。ポスターの右上に朱色で刻印された「男は命を賭けた。振り向いてもくれない女に」という惹句は劇の顛末を物語っているが、この最終幕の場面ではそんな女が遂にようやく男の方を振り返り、それも陽気に微笑んで、さらに自らすすんで挨拶する、こんなくだりであった。

 男の部屋にたたずむおんなの背中が実際にあり、これを撮影現場で目撃した石井が忠実に描いたのであるから、そうとなれば、私が百年も前の絵師の絵をここで引き合いに出すのは完全な誤りであって、妄想以外の何物でもないという事になる。他人の作品の構図がどうとか、影響がどうとか言える余地など皆無だろう。

 それでも私は長年こころに巣食った想いを、跡形も無くすっかり洗い流すことが出来ないでいる。振り向いた女ではなく、寸前の遠い目をした無表情のおんなを何故石井は選んだのだろう。そもそもあの時の硬直した、人間離れした横顔が不自然に幾呼吸分も連なり、その後、異様な明度を持って、まるで電灯のスイッチがカチリと音も鳴らしたように、それとも、カチンコが高らかに鳴り「演技」を始めた女優のように、とでも形容すべきか、あまりにも露骨な転調をわざわざ刻んでいることに石井の作為を見つけ、怪しいざわめきが耳朶に響いて仕方ない。

 月岡芳年(つきおかよしとし)は天保10年(1839年)の春に生まれたとウェブ上に書かれてあり、この記述に誤りがなければ「日本の幽霊のなかでもっとも美しい」と言われた「源氏夕顔巻」(1886)を彼が描いたのは47歳の頃になる。1946年生れの石井隆が『ヌードの夜』のポスター画に挑んだのも同じく47歳だ。

 生まれ変わりとかオカルトの方向に話を持っていきたい訳ではない。画家という存在は描く対象に全霊を傾け、共振を自らに課し続ける役割と思う。敬愛する絵師の画業について思案を深める間に、歳月の窪みを超えた共時性(シンクロニティ)を獲得してしまうことに一切の不思議はないと考える。真似という次元ではない、もっともっと深いところで渦巻いて人間の芯を一方向へと流しやる、運命の潮力がこの世にはある気がしてならない。

 そのようにして芳年の作品群をぐっと引き寄せてみると、過去の石井劇画で醜貌をもって片隅に追いやられた作品たちもすっと馴染んでいく気配があり、俄然息を吹き返していく。

(*1):「ヌードの夜 DVD-BOX」 特製ブックレット 「石井隆 映画の中に“名美”を探して」3頁 取材・構成 塚田泉                          

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