2011年3月8日火曜日

消えない“木霊(こだま)”~石井作品の反復について~


 石井隆を読み進むに当たっていつ頃からイングマール・ベルイマンIngmar Bergmanを意識したかを振り返れば、『叫びとささやき Viskningar Och Rop』(1973)のスチールが口火だったと記憶している。雑誌掲載の鉛筆画に始まり、やがて単行本「名美」所載の【緋のあえぎ】(1975)扉絵へと加筆され再録なった石井の一枚絵と構図がとても似ていた。いずれも寝具に音もなく横たわるおんなと一体の人形とが並び描かれていた。

 痛々しいとか哀れというのではない。卑猥という括りも当てはまらない。誰しもが懐中し、時折向き合わねばならぬ独りきりの時間が描かれていた。もちろんスチールと絵とでは趣きが違うのだし、横たわる顔の向きも左右別々で異なっている。しかし、なぜかしら両者は妙に引き合うものがあって、奥まったところで囁き続けて止まないのだった。

 こうして深く凝視めるに至ったベルイマンの作品には、心理描写や夢魔の扱い方に石井と共通する“生理”が認められて唸ってばかりだった。例えば『沈黙Tystnaden』(1963)や『叫びとささやきViskningar Och Rop』(1972)等を見ると、質感がやたら似た場面に突き当たる。ワイングラスの割れた破片で自らの股間を傷付け、鮮血に染まるのを横暴な夫に見せつける。さらに血に染まる手の甲で唇と頬を拭っていく『叫びとささやき』での壮絶な血化粧なんかはその典型だ。口元を紅くして艶然と微笑むおんなの顔は、石井の描き続けた面影にしっとり像を重ねていく。【蒼い狂炎】(1976「別冊ヤングコミック女地獄」第2集所載)や【水銀灯】(1976「イルミネーション」所載)で自傷し崩れ落ちていく名美の姿がたちどころに思い返された。

 もとより石井は石井、ベルイマンはベルイマンであって、各作品のいちいちの描写を取り上げ例証しても詮無いように思われ、何より両監督に失礼だろうと臆するものが湧いて来る。されど映像以外にも共通する面があることを知ってしまい、困ったことに諦めがいよいよ付かなくなってしまうのだ。三木宮彦著「人間の精神の冬を視つめる人 ベルイマンを読む」(フィルムアート社1986)を読み返し、次の文章に行き当たってしまった。「登場人物の名にはアルマやヴォーグレル(*1)という、以前の作品のものが使われており、ミスティフィケーション効果を出している」。ここで言うミスティフィケーションmystificationは児童心理学用語でなく、単純に「神秘化」という程度の意味合いだろう。

 石井の劇でも“村木”や“名美”といった人物名が幾度も復活してはスクリーンを賑わせるのだし、似たような状況や小道具が彼らを取り巻いて“宿命”へと追い込んでいくところがある。例えば『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)では竹中直人が演じる“編集者”葛城が需要な役回りを演じていたけれど、容姿こそ違え【赤い教室】(1976)、『天使のはらわた 名美』(1979監督田中登)、【その後のあなた】(1980-81)、『ルージュ』(1984監督那須博之)の各編集者と共振するものが確かにあって、その都度に読者や観客は手の平に大量の汗をかきながら息を押し殺して見守ることと相成る。程なく顔を覗かせるだろう狂気と惨劇、鮮血や分裂といった大混乱を予感してひどく慄(おのの)いたものだった。これなどは石井らしいミスティフィケーションと呼べるのではなかろうか。

 映画監督である前に熱烈な映画ファンを自認する石井であるから、過去に於いてもしもベルイマン作品に触発されたのであるならば、その旨をどこかで必ず喋ってしまうはずだ。残念ながら直接名指しで言及した箇所はなかったように記憶しているから、両者の関連は単なる思い込みなのかもしれぬ。しかし、だからと言って両者の“類縁性”といったものまで容易に掃き捨てて良いとは思えない。

 過去の作品群を忘却の深いぬかるみに埋没させず、むしろ表層に雨を叩きつけるようにして反響をわんわんと誘い、新たな作品に活きた弾みを付けようとする。決まった人格と名前を継承して言霊(ことだま)の力を極限まで高めようとする。そんな策謀を石井隆は駆使しているのは違いなく、その強靭な作家性を海の向こうの巨人ベルイマンを引いて語るにいささかも無理や誇張は感じられない。石井隆とは実のところ、そんな国際性を背負った面白い監督なのじゃないかと考えている。(2007年08月15日03:15、2007年08月27日01:56)

(*1):同著によれば“ヴォーグレル”は“鳥”の意。





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