2019年11月18日月曜日

“憑かれたように”『人が人を愛することのどうしようもなさ』~生死に触れる言葉(3)~


 石井隆の『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)は複数の夫婦関係の終焉を描いている。石井は2000年以降の映画制作において、物語空間でのあからさまな「奇蹟の顕現」を封印、もしくは極力目立たなくしようと決めた節があるのだが、『人が人を愛することのどうしようもなさ』でもこれを堅守しつつ、離別の顛末と翻弄される周囲のさまを淡淡とフレームに収めていく。

 特に俳優業を共にいとなむ主人公とその夫をめぐる結婚生活の凋落は、至極丁寧に描写されており、カメラは独特の粘度を持って主人公のおんなの動静に寄り添っていく。男の横暴がおんなの自尊心を粉微塵に砕き、急速に瓦解へと至る一部始終を、目をそらさず、むしろ極端な接写さえ挿し入れて記録する。奈落に墜ちつづける感覚と終幕を覆う血しぶきはもはや「六道絵」や「地獄絵」を想起させるし、大写しとなって銀幕を占領するおんなの顔貌は観るものすべてを震え上がらせるに十分だった。初見の際の劇場では、茫然としてゆらめき出た観客で廊下が溢れた。

 私たちはフィクションや現実の報道映像で、美しいフォルムを宿した建築物が地震や爆発により無惨にひしゃげて圧壊していく様を幾つも目撃して来たが、石井は人間も同様に潰されて瓦礫となる一個の建造物であると告げている。俳優の演技と撮影技術を統合して、「廃墟となる人間」を余すことなく表現してみせる。

 ざっと振り返っても次々と鮮烈な場面が脳裏に蘇える。特に主演を演じた喜多嶋舞(きたじままい)と、彼女を役柄としても映画の彩りとしても両義的に支える津田寛治(つだかんじ)の、血気迫るふたりの演技は圧巻のひと言であって、表現者の臨界点がどれだけ高い尺度で置かれているか、その値は一般人の想像や能力から遙かに隔たった域にあると見せつけられた気分になった。娯楽の様相を越えて、何か生きて活動する上で課題を託されたように感じる。宿る熱量は半端なものではない。

 それにしても、どのような演技指導を施せば役者というのはここまで化けられるのだろう。人が人を使って仕事に邁進させる上で、どのような言葉を掛ければ勢いよく発火し、めらめらと音立てて燃えてくれるのか。畑違いの場処で暮らす身ではあるが、人心の統率の秘訣は何なのか、石井の劇で毎度毎度見られる役者の燃焼の烈しさがいったい何処から来るのか、ずっと気になっていた。

 今回、石井の脚本をまとまって読み直す機会を得て『人が人を愛することのどうしようもなさ』にもあらためて目を通したところ、ト書きに印象的な語句の反復が見つかった。石井は都合三度に渡り「憑(つ)かれたように」という表現を組み込んでいる。人の表層が妖しく硬化していく様子を指すこの語句が、役者を奮い立たせる起爆剤として働いたと思われる。

 最初はこのように描かれる。夫の気持ちが若い女優へと移って自分をないがしろにしだし、酷く打ち負かされたおんなは深夜の町に飛び出して電車に飛び乗るや否や、素顔が分からなくなる程の厚化粧に耽っていく。

「乗り合わせた客がじろじろと見ている中で、鏡子はまるで悪魔にとり憑かれたような態度で化粧をしている。」(*1)

 日頃の常態からひどく逸脱し、魂が飛翔するのか、それとも錐揉み状態になるのか、いずれにしても大きく変容する道程をこれから刻むのだ、と役者に向けて強調してみせたのだった。さらに終幕近くのおんなの描写においても、きわめて人工的な記述が連なるのである。

「名美が、何かに取り憑かれたように一点を凝視ながら諳(そら)んじて語る。」(*2)

 もちろん「憑かれたように」という比喩は目新しいものではない。「僕はへとへとになりながら、時間を忘れ、ものに憑かれたように、あちこち探し歩いた」(原民喜「夢と人生」)、「ところが、憑かれたように、バッハのフーガを繰りかえして弾いているうちに、さすがに寿子の眼は血走って来た」(織田作之助「道なき道」)という具合に、比喩としてはありふれた表現だろう。しかし、一篇の物語中に幾度も繰り返されると、さすがに作者の企てが詰まった意識的な登用と気付かされる。

 いつものとち狂った深読みであろうか。熱狂や忘我の時間は誰の身にも訪れるもので、そこに「憑かれたような」時間が育っていく。私にもあるし、あなたにだってあるに違いない。のめり込む対象はそれぞれである。仕事に自ら埋もれていく人もいるだろう。恋情や性行為かもしれない。薬物や賭博にはまる者も少しはいるかもしれない。何もかも振るい落として没入する瞬間は皆にある訳だから、石井の記述もことさら難しい意味合いを含むのではなく、いわゆるファナティックな演技、めりはりと勢いのある発声や所作を俳優に求めている点を暗に示したかっただけなのだと解釈したって構うまい。

 それにしても「憑かれたよう、憑かれたよう」と繰り返す文法は、あまりに物怖ろしい面持ちではないか。単純なシナリオ技法と割り切り、さらさらと読み流すのは危険と感じる。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』の点在するこれ等「憑かれたような」場面をどう解釈すべきか、手詰まり感を覚えて「憑依研究」の専門書にすがったところ、以下のような文面に突き当たった。石井が同様の研究書を参考にして筆をふるった訳では勿論ないのだろうが、照合することで急速に映画は深度を増し、陰影を深めて感じらたのは確かだし、その程度の宗教知識の蓄積は石井ならば有って不思議はない。そ知らぬ顔で台本に怪しい記号を組み込むことは、いかにもしそうではないか。

 すなわち、単純な比喩の類いではなく、もう半歩踏み込んで霊的で森厳な空間づくりを手探ったのではないか、憑かれたように何事かに没入する様子ではなくて、状況に追いつめられ何事かに実際に「憑依された人間」の実相こそを映像として定着させようと目論んだのではないか。

 宗教学者の斎藤英喜(さいとうひでき)の以下の文章に、まず明瞭な磁場を感じた。「シャーマニズムとは何か エリアーデからネオ・シャーマニズムへ」と題した文のなかでミルチア・エリアーデの見解に触れ、彼のシャーマニズム研究における「脱魂型(エクスタシー型)」と「憑依型(ポゼション型)」の区分が「憑依」をめぐる現代の学術の根幹になっていると紹介すると共に、後者の「憑依型(ポゼション型)」を軽視する傾向を批判している。(*3)

 物の怪や先祖霊による「憑依」現象を念入りに調査し、西洋の識見に敢然と歯向かう学者の存在にまず単純に驚かされる。学究というのはまったく恐ろしい、彼らも十分に「憑かれた人たち」と思う。そうして目を丸くしたのは「憑かれ方」にもタイプもあるという部分だ。『人が人を愛することのどうしようもなさ』の喜多嶋の演技、石井が定着させた「憑かれた」姿が「脱魂型(エクスタシー型)」と「憑依型(ポゼション型)」のどちらだろう、なんて考えた事もなかった。

 私は斎藤の意見を肯定も否定も出来る立場にないが、あえて言うなら、いくら「悪魔」という文字が添えられようが、喜多嶋の形相は「脱魂型(エクスタシー型)」に入るように思われる。唇をぱっくりと開き、尖った犬歯を剥き出しにしながらも、狐や河童といった動物神に侵され、言動が甚だしく異化した訳ではないからだ。おんなは野獣になるのではなく、己の化粧にただただ酩酊していくばかりである。それにつれて、核(コア)が剥き出しになるだけである。(ここで石井隆という作家を考える上で極めて大事と思われるのは、石井の「憑かれる」というイメージがきわめて洋風であって土着的な日本の信仰に染まっていない点だろう。後日このあたりに触れていきたい。)

 斎藤は別の文章で紫式部「源氏物語」を引き、憑依という現象が実は単相ではなく、複雑な重層構造を為していることに光を当てている。これもずい分とこころに停泊した。

「注目したいのは、死霊に取り憑かれた瞬間が、浮舟自身には「いときよげなる男」が近づいてきたと見えるところだ。この「きよげなる」という表現は、たとえば『更級日記』では、夢に現れる神仏やその使いをあらわしている。とすれば、浮舟自身にとって悪霊が取り憑く瞬間は、神仏と見まがう、聖なるものとの接触=ヴィジョンでもあったということになる。悪霊に憑かれることは、超越的なもの、聖なるものにもっとも近づく一瞬でもあったのだ。魔性と聖性が触れ合う際どい霊域である。」(*4)

 石井は善と悪、美と醜をゆるやかに往還するまなざしを常に手離さずに物語を編んでいくのだが、「憑かれる」という行為に対しても異常、不健康、悪行、汚穢といった負のイメージを与えることなく、聖性をどこか信じる風である。人間ってそういうものだろ、狂気や性愛が汚いって、そういう二元論で追いやれるものじゃないよね、と囁いている。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』の女優にどこか宗教画の面持ちを垣間見るひとは多いように思われるが、その根底には「魔性と聖性が触れ合う際どい霊域」としての憑依描写が貢献している。私たちはもしかしたら、実はとんでもない次元の物を見せられているのじゃなかろうか。

 さらに斎藤は同文のなかで、文化史家の竹下節子(たけしたせつこ)の著書『バロックの聖女』(工作社 1996)に触れて自説を補強している。

「十七世紀のバロック時代に、修道院で神秘体験をした修道女たちを論じるのだが、「神」なるものを知覚し、交流したという「聖女」は同時に「悪魔憑き」として排除される存在であったこと、彼女たちにとって「神」は「性的な幻想を誘う存在」であったことが論じられていて、たいへん興味深い」(*5)

 この辺りにも映画『人が人を愛することのどうしようもなさ』を鑑賞した後に、私たち観客が長く引きずる感動の正体が見え隠れするように思われる。性描写の激しさばかりが取り沙汰され、狂人屋敷の戯言と笑い、あの女優はかなり狂ってるよね、神経が普通じゃないよ、と優越心にひたる道筋も用意されてはいるし、身も蓋もなくダークで救いのない話と嫌厭する見かたも一部あるだろうが、「悪魔憑き」という道を突き詰めた涯てに「脱魂」し、終には「聖女」へ至る様子が描かれていた、それこそが石井の示すテーマであった、と、劇の本質を看取る方が歓びも学びも遥かに大きくはないか。

 劇の中盤では「憑かれる」という表現が、遂に主人公を支える男へと伝染している。

  「岡野が憑かれたように、
岡野「オオ、オッケーです……!」
   鏡子がニコリと微笑んで溜息をつく。」(*6)

 筆が滑って重複したものではなく、石井は意図して「憑かれる」という語句を組み込んでいる。道を突き詰めた涯てに「聖性」に至りつつあるおんなに対し、分かった、共に歩もう、殉じよう、と腹が据わった瞬間だ。状況に絡めとられて殺人を犯し、やがて血だらけで死んでいく男の姿は一種の殉教像と捉えるのが至極妥当と思われる。魂をリレーする行為は宗教じみたものであって、憑依にも似たおどろおどろした恋着が必須であり、時に血の祝祭さえ準備すべきという石井の解釈が刻まれている。

 私たち人間は救いようのない欠陥品であって、汚泥にみたされた夜と清浄な空との境界面にほんのりと横たわる暁闇にかろうじて張り付いて暮らす存在である。新聞の社会面を広げれば別れ話をめぐっての刃傷沙汰が次々に起きていて、無抵抗の者が切り裂かれ、悲鳴が木霊する様子が散見されてなんとも陰鬱になる。

 刃物が飛び出さないだけで、殴る、蹴る、罵る事態は半径数キロメートル圏内にいくらでも転がっているのであって、未来永劫ひとの世は流血を避け難い場処であるのだが、その救いがたい状況を石井は映画という枠内で「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」のようにつぶさに再現しながら、懸命に当事者に寄り添って光明を探そうと骨折って見える。

 カメラは諦観と哀惜の入り混じった醒めた視線を保持して見えるが、実は全然諦めてなどいない。君たちは馬鹿者だ、人生の無駄遣いをしている、俺は知った事じゃないから勝手に殺し合え、堕ちるのは自業自得で当然と背中を向けることなく、堕ちて、堕ちて、さらに堕ちぬいた場処で何とか「救い」の手段は無いものだろうか、と懸命に悶えている。

(*1):『人が人を愛することのどうしようもなさ』決定稿 シーン28 終電車の電車の中は(『レフトアローン』の続き、零時過ぎ)48頁
(*2):同 シーン84 インタビューの部屋(現在のつづき) 126頁
(*3):「シャーマニズムの文化学 日本文化の隠れた水脈[改訂版]」 森和社 2009所載 斎藤英喜 「シャーマニズムとは何か エリアーデからネオ・シャーマニズムへ」18頁
(*4):「『源氏物語』のスピリチュアリティ 描かれた霊異」161頁
(*5):同 但し書き 161頁
(*6):『人が人を愛することのどうしようもなさ』決定稿 シーン56 廃墟ビルの続き、外は雨(『レフトアローン』の続き)88頁

2019年10月19日土曜日

“屈葬”『ヌードの夜』~生死に触れる言葉(2)~


 公言されているので構わないと思うが、石井隆は幼少年期に喘息を病んでいる。朦朧として寝具に横たわるうちに、不安な瞳にこの世ならぬ物象を目撃させもした。若い時分から生死(しょうじ)を深く身近に考えることを強いられた石井が、劇画作品や映画に人間の死を多く取り入れるようになったのは自然な帰結だろう。

 『ヌードの夜』(1993)も、だから死者が出現し、葬られる過程を丹念に描いた作品だった。学生のときに乱暴されたおんな(余貴美子)は加害者の男(根津甚八)の歪んだ愛情に捕縛され、都会の隅で事務員として働きながらも男との密会を延延と要求されてしまう。会うたびに金をむしり取られて、青息吐息でようやく生きてきたのだけど、別な男との結婚話が持ち上がり、膠着状態から脱け出すために男の殺害を企てるのだった。ホテルに呼び出された男は浴室でおんなから襲撃を受け、包丁で滅多刺しにされて絶命する。

 おんなは事前に代行業の男(竹中直人)と接触しており、自分に寄せる好意も計算に入れて、浴室に残し置いた遺体の後始末を仕向けるのだった。何も知らずに翌朝のこのこホテルの部屋を訪れた代行屋は、浴室を見て仰天する。一度は泡を食って逃げ出そうとしたものの、フロントでの受け付けも代行しており、室内に指紋をべたべた残している状態でもあるから早晩容疑者として手配されるのは間違いない。代行屋は部屋のなかを忙しく行き来し、次第に恐慌をきたしていく。

 何か前科でもあるのだろうか、警察に追われれば逃げ切れずに逮捕され、犯人にされてしまうと観念したらしい代行屋はなんとか気持ちを取り直し、一旦自宅に帰って大きな旅行用のキャスター付バッグを持ってくる。死体を中に押し込み、隙間に手当たり次第にドライアイスを詰め込んでバッグと共に遁走するのだった。

 私の手元にこの『ヌードの夜』の準備稿がある。実際に仕上がった映画とは少し趣きが違っているのだが、浴槽で息絶えている男の描写が興味深い。「見知らぬ男(行方)が屈葬スタイルで動かない。バスタブの底も血で赤い」と石井はト書きに記したのだった。(*1) おんなから行方(なめかた)という男の存在を聞いていない代行屋にとっては初対面でいきなりの展開である。その行方が「屈葬(くっそう)」の形で死んでいる。

 役者とスタッフに準備をうながし、円滑な撮影を願って書かれた事務的な状況説明に過ぎないと断じることも可能だ。次のシーン以降に展開する旅行バッグへの押し込み、その行為と様子につき連想を誘う助走めいた役割があったと理解も出来よう。

 でも、「見知らぬ男がうずくまって動かない」とか「見知らぬ男が死んでいる、顔はうなだれ見ることができない」でもなく、「見知らぬ男が窮屈そうに手足を曲げてバスタブの一方にぐったりしている」というのではない。極めて強靭な印象を与える「屈葬」という宗教用語を挿し入れている。その字面と響きには特殊な後押しがあるように感じられる。石井隆の死者への想いを嗅ぐ。

 私たち観客は日常の暮らしや仕事に思いあぐねる身として、劇中でまだ生き残っているおんなと事件に巻き込まれた代行屋に自ずと目が行ってしまうのだけど、石井はこの「屈葬」という語句を投じて、その瞬間から行方(なめかた)という不器用な男の葬送の儀式を人知れず無言で始めている。密やかな弔意を発し続けて、そのまなざしは結局のところ終幕近くまで引きずられていく。生者と死者との間を往還しながら、離れることなく均等に視線は注がれるのである。

 続編に当たる『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では、今度は風穴を用意し、殺された男の骸(むくろ)を乾いた冷気に晒していく。台詞には死因を特定させないようにわざわざ風穴へ運んで「熟成させている」と説明させ、観客の多くも法医学はよく分からないがそんなものかと納得する訳なのだが、あれなどは「曝葬(ばくそう)」と呼ばれる古(いにしえ)の葬送手法の再現であって、『ヌードの夜』の「屈葬」と対を成す手向けの景色と言えるだろう。

 我々の先祖をさかのぼれば、風葬や洞窟葬を経て土に還った者たちに必ず行き着く。それが当たり前だったのだ。深く土を掘らない、立派な墓石を用意しない、薪や油を大量に投じない、それだからといって弔いに関して真剣さがなかったとは思わない。各地に残る横穴墓などはその遺物と私には見えるし、奄美群島の北東部に位置する喜界島(きかいじま)では明治10年頃まで慣習が生きていた。未開であるとか粗野であるという次元ではなく、死者に対する名残りや愛着から、また常世(とこよ)の捉え方の違いから、彼らは今のわたしたちより緩慢な方法を選んだに過ぎない。

 腰をすえてじっくり死者を見守ろうとする石井の劇は、常に一種の葬送の列となって生者と彼らを同じ空間に置くべく工夫して見えるのだが、その調子は生死(しょうじ)を機械的に扱いがちな現実の弔葬とはやや乖離した、素朴でどこまでも真摯な旧い儀式形態と通底するように思われる。

 生きる者たちを描く表層とは見えざる流れが劇中ひそかに動いていて、時に不自然と目に映る箇所が頭をもたげて出現し、訓練されていない観客には大いに慌てることになる。けれど、粘り強く目を凝らしていけば、その不自然さこそが実は物語の肝であると知れる瞬間が訪れる。作者が総力をあげて劇中人物の生死(しょうじ)を司り、大概の人がたやすく見限る相手を手放すことなく、孤軍奮闘しているのが次第次第に分かってくる。

(*1):『ヌードの夜』準備稿(赤色横書き題字) 36頁 シーンナンバー34 バスルーム

“無暗”~生死に触れる言葉(1)~


 いまから綴る事柄はやや常軌を逸したものだ。断章取義のそしりを到底免れ得ないだろう。世間に対して己の不勉強を晒すことにもなるから、急速に興味を失う人も出るに違いない。なんだよ、がっかりさせるなあ、これまで耳を貸して損をしたよ、と、いよいよ信頼消失して、私が書いてきたこと、これから書くことの総てに誰もが匙を投げていく。それ等が落ちて床で響かせる金属音さえ、かちゃりかちゃりと今から聞こえてきそうだ。

 それはそれでもう仕方がないとも考える。極私的な感懐で、誤読や突飛な連想が含まれるのは最初から否定しないが、私の内部に居続ける石井隆の劇をめぐって嘘や偽りは一切ない。悪戯に石井の仕事を飾り立てるつもりはなく、十代なかばから彼の劇画と映画を凝視めつづけ、2019年現在この国に暮らすひとりの読み手の胸中をひたすらトレースして愚直に書き遺すだけである。

 私にとって石井の書いてきた脚本は、娯楽性に富む実に嬉しい読み物であって、長く悦びをもたらす一篇の優れた「映画」そのものだった。同時に、教本に近しい難解な存在だった。石井の書くト書きと台詞のどこがどう面白いのか、其処に狙いを絞って、石井世界の醍醐味を探ってみたいと思う。

 石井は他人への提供を含めてこれまでに40本近くの脚本を世に送っているが、成人向けの作品も数多く含むためか、書籍のかたちでの集成がまだ実現されていない。「キネマ旬報」「シナリオ」といった映画専門誌に掲載されたものを断片的に読んでいくか、彼自身の単行本に収録なった幾篇かを漁るか、それとも撮影現場で使用された台本を入手して確認するしかないのが現状である。ほんとうに勿体ない話なのだが、それでもこの頃はウェブを通じて古書店との交信が容易となり、格段に手に入れやすい環境が出来たのは幸いなことだ。石井に心酔する受け手の何割かが台本の蒐集をひそやかな愉しみとしているのだが、その熱狂は単なるコレクター心理を越えていて、読むこと自体の愉しさが石井の脚本に付随することを証し立てる。

 具体的に各作品の記述に踏み込む前に、「脚本を語ること」の礼儀作法を確認しておきたい。そもそも脚本というものは何行、何文字で構成されているのだろう。映画学校にもシナリオ教室にも通わなかった無粋な私は、全然その辺りが分からない。じゃあ実際に数えてみたらどうだろう、と手元にある一冊をやおら掴んでぱらぱらと開いたところで、どうにも面倒に感じて止めてしまった。数年前ならここは何文字、行は幾つ、ならばこの頁はこうだから全体ではこんな数字だろうか、では、こっちの台本はいかがだろう、と血眼で電卓を叩いただろうけど、この頃は頭もこころも何だか一杯一杯の感じで腰が引けてしまう。

 実際のところ頁をめくって表層だけを見やったならば、初期のものと近作では面持ちが大きく異なっていて、字数を知ったところで意味がないかもしれない。たとえば『団鬼六 少女木馬責め』(1982)と近作『GONIN サーガ』(2015)ではまるで密度も頁数も違っている。時期によって脚本家の言葉づかいが転調してト書きが増えたり減ったりもするだろうし、恋する男女が対となって互いの瞳を覗き合う小さな部屋の、それも乱れた褥(しとね)を接写していく性愛劇と、人生の方向を見失った老若男女が群れ集う活劇ではその字数に段差が生じて当然だ。

 改めて手に取ってしげしげと眺めると台本というものは大層な労作であり、これだけの文字や表現をひり出していく苦労は並大抵の物ではないのが解かる。新旧比較してよりシンプルに見える前者にしても、十分それだけで密林の様相を呈している。手元にあるものを重ねてみれば尚更その物量に圧倒される。石井は物書きを生業とし、日々原稿用紙やコンピューターに向かって厖大な、満点の星とも見まがう言葉の群れを紡いできた。その偉大な仕事について喋ろうとしている。無暗(むやみ)をするとはこういう行為を指す。

 さて、例に出したこの二作品の脚本内部の、どの箇所に言及し、また、どのぐらいの範囲や深度で続続と撫でまくったならば、これ等の作品を完全に消化し、石井隆の作家性を言い当てたことになるのか、実はその辺りについて自信が皆無である。40本近くの脚本を世に送っている石井の作家性を語る最低条件とは何なのか、その域に到達せぬまま書くならば、一体全体その文章は何と呼ばれるのだろう。浅学菲才(せんがくひさい)の素人が書き殴った感想や落書きだろうか。狂人のたわ言、犯罪者の妄想ノートだろうか。脚本家石井隆を語るために何をすべきで、何をすべきではないのか。すべきではない事をしでかした文はひとりの作家をひどく傷つけ、実像から剥離した場処へと若い読み手を次々にいざなって、歪んだ印象を育ててしまう病原体か毒薬に堕した存在か。

 恩知らずの恥ずべき行為をしそうで怖い。大体にしてこれから触れようと考えている石井の脚本は片手で余る数であって、上に書いた二作品さえその中には含まないのだ。『団鬼六 少女木馬責め』と『GONIN サーガ』の二作品を除外すると決めた時点で、わたしは既に書き手失格ではないのか。口を開く権利を自ら放棄してはいないか。審判から退場を命じられたスポーツ選手がその声に気付かず、うろうろとフィールド内を未練がましくさまよっている、そういう事態かもしれない。

 加えて私が触れようとしているのは劇の構造であるとか人物造形の巧みさではなく、妙にこころ惹かれるト書きや台詞の一部である。それも一行にさえ満たない短さだったり、たったひとつの単語であったりする。木を見て森を見ないどころではない。葉の一枚を切り取り、顕微鏡にあてがって覗き視て、形作る細胞のひとつにあえかな緑色の発光を認めたことをもって石井隆という巨大なジャングルを語ろうとしているのだから、これはもう犯罪に等しい暴虐の次元ではあるまいか。

 さっさと沈黙すべきだろうか。けれど、そんな事をして私は破裂してしまわないだろうか。壊れてもいいから「魂のこと」は頭から一切合財払い落として、日常の暮らしに専念し、穏やかに暮らすべく努めるのが良いのか。そんな自分は願い下げだ。

 数多くの状況説明が連なり、台詞が堆積して、極めて肉厚の表現体となっている脚本を好き勝手に切り刻んで、有機体が鉱物と化してそっと眠っているかの如き単語や言い回しをシャーレにぽつんと置いていく。真珠然としたその妖しい響きをもって、これが石井隆だよね、そうは思わないか、と語るのは神をも畏れぬ所業のような気がして来て、どんどんどんどん頭が重くなっていく。

 職場に来てみたら鉄扉が完全に締まっていて、今日は休業日だったと分かる。ああ、いよいよどうかしている、脳みそがへんちくりんだ。仕方ないのでコーヒーを飲み、気持ちを落ち着かせながら、こんな駄文を必死になってこねくり回している。