2019年10月19日土曜日

“無暗”~生死に触れる言葉(1)~


 いまから綴る事柄はやや常軌を逸したものだ。断章取義のそしりを到底免れ得ないだろう。世間に対して己の不勉強を晒すことにもなるから、急速に興味を失う人も出るに違いない。なんだよ、がっかりさせるなあ、これまで耳を貸して損をしたよ、と、いよいよ信頼消失して、私が書いてきたこと、これから書くことの総てに誰もが匙を投げていく。それ等が落ちて床で響かせる金属音さえ、かちゃりかちゃりと今から聞こえてきそうだ。

 それはそれでもう仕方がないとも考える。極私的な感懐で、誤読や突飛な連想が含まれるのは最初から否定しないが、私の内部に居続ける石井隆の劇をめぐって嘘や偽りは一切ない。悪戯に石井の仕事を飾り立てるつもりはなく、十代なかばから彼の劇画と映画を凝視めつづけ、2019年現在この国に暮らすひとりの読み手の胸中をひたすらトレースして愚直に書き遺すだけである。

 私にとって石井の書いてきた脚本は、娯楽性に富む実に嬉しい読み物であって、長く悦びをもたらす一篇の優れた「映画」そのものだった。同時に、教本に近しい難解な存在だった。石井の書くト書きと台詞のどこがどう面白いのか、其処に狙いを絞って、石井世界の醍醐味を探ってみたいと思う。

 石井は他人への提供を含めてこれまでに40本近くの脚本を世に送っているが、成人向けの作品も数多く含むためか、書籍のかたちでの集成がまだ実現されていない。「キネマ旬報」「シナリオ」といった映画専門誌に掲載されたものを断片的に読んでいくか、彼自身の単行本に収録なった幾篇かを漁るか、それとも撮影現場で使用された台本を入手して確認するしかないのが現状である。ほんとうに勿体ない話なのだが、それでもこの頃はウェブを通じて古書店との交信が容易となり、格段に手に入れやすい環境が出来たのは幸いなことだ。石井に心酔する受け手の何割かが台本の蒐集をひそやかな愉しみとしているのだが、その熱狂は単なるコレクター心理を越えていて、読むこと自体の愉しさが石井の脚本に付随することを証し立てる。

 具体的に各作品の記述に踏み込む前に、「脚本を語ること」の礼儀作法を確認しておきたい。そもそも脚本というものは何行、何文字で構成されているのだろう。映画学校にもシナリオ教室にも通わなかった無粋な私は、全然その辺りが分からない。じゃあ実際に数えてみたらどうだろう、と手元にある一冊をやおら掴んでぱらぱらと開いたところで、どうにも面倒に感じて止めてしまった。数年前ならここは何文字、行は幾つ、ならばこの頁はこうだから全体ではこんな数字だろうか、では、こっちの台本はいかがだろう、と血眼で電卓を叩いただろうけど、この頃は頭もこころも何だか一杯一杯の感じで腰が引けてしまう。

 実際のところ頁をめくって表層だけを見やったならば、初期のものと近作では面持ちが大きく異なっていて、字数を知ったところで意味がないかもしれない。たとえば『団鬼六 少女木馬責め』(1982)と近作『GONIN サーガ』(2015)ではまるで密度も頁数も違っている。時期によって脚本家の言葉づかいが転調してト書きが増えたり減ったりもするだろうし、恋する男女が対となって互いの瞳を覗き合う小さな部屋の、それも乱れた褥(しとね)を接写していく性愛劇と、人生の方向を見失った老若男女が群れ集う活劇ではその字数に段差が生じて当然だ。

 改めて手に取ってしげしげと眺めると台本というものは大層な労作であり、これだけの文字や表現をひり出していく苦労は並大抵の物ではないのが解かる。新旧比較してよりシンプルに見える前者にしても、十分それだけで密林の様相を呈している。手元にあるものを重ねてみれば尚更その物量に圧倒される。石井は物書きを生業とし、日々原稿用紙やコンピューターに向かって厖大な、満点の星とも見まがう言葉の群れを紡いできた。その偉大な仕事について喋ろうとしている。無暗(むやみ)をするとはこういう行為を指す。

 さて、例に出したこの二作品の脚本内部の、どの箇所に言及し、また、どのぐらいの範囲や深度で続続と撫でまくったならば、これ等の作品を完全に消化し、石井隆の作家性を言い当てたことになるのか、実はその辺りについて自信が皆無である。40本近くの脚本を世に送っている石井の作家性を語る最低条件とは何なのか、その域に到達せぬまま書くならば、一体全体その文章は何と呼ばれるのだろう。浅学菲才(せんがくひさい)の素人が書き殴った感想や落書きだろうか。狂人のたわ言、犯罪者の妄想ノートだろうか。脚本家石井隆を語るために何をすべきで、何をすべきではないのか。すべきではない事をしでかした文はひとりの作家をひどく傷つけ、実像から剥離した場処へと若い読み手を次々にいざなって、歪んだ印象を育ててしまう病原体か毒薬に堕した存在か。

 恩知らずの恥ずべき行為をしそうで怖い。大体にしてこれから触れようと考えている石井の脚本は片手で余る数であって、上に書いた二作品さえその中には含まないのだ。『団鬼六 少女木馬責め』と『GONIN サーガ』の二作品を除外すると決めた時点で、わたしは既に書き手失格ではないのか。口を開く権利を自ら放棄してはいないか。審判から退場を命じられたスポーツ選手がその声に気付かず、うろうろとフィールド内を未練がましくさまよっている、そういう事態かもしれない。

 加えて私が触れようとしているのは劇の構造であるとか人物造形の巧みさではなく、妙にこころ惹かれるト書きや台詞の一部である。それも一行にさえ満たない短さだったり、たったひとつの単語であったりする。木を見て森を見ないどころではない。葉の一枚を切り取り、顕微鏡にあてがって覗き視て、形作る細胞のひとつにあえかな緑色の発光を認めたことをもって石井隆という巨大なジャングルを語ろうとしているのだから、これはもう犯罪に等しい暴虐の次元ではあるまいか。

 さっさと沈黙すべきだろうか。けれど、そんな事をして私は破裂してしまわないだろうか。壊れてもいいから「魂のこと」は頭から一切合財払い落として、日常の暮らしに専念し、穏やかに暮らすべく努めるのが良いのか。そんな自分は願い下げだ。

 数多くの状況説明が連なり、台詞が堆積して、極めて肉厚の表現体となっている脚本を好き勝手に切り刻んで、有機体が鉱物と化してそっと眠っているかの如き単語や言い回しをシャーレにぽつんと置いていく。真珠然としたその妖しい響きをもって、これが石井隆だよね、そうは思わないか、と語るのは神をも畏れぬ所業のような気がして来て、どんどんどんどん頭が重くなっていく。

 職場に来てみたら鉄扉が完全に締まっていて、今日は休業日だったと分かる。ああ、いよいよどうかしている、脳みそがへんちくりんだ。仕方ないのでコーヒーを飲み、気持ちを落ち着かせながら、こんな駄文を必死になってこねくり回している。

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