2019年10月19日土曜日

“屈葬”『ヌードの夜』~生死に触れる言葉(2)~


 公言されているので構わないと思うが、石井隆は幼少年期に喘息を病んでいる。朦朧として寝具に横たわるうちに、不安な瞳にこの世ならぬ物象を目撃させもした。若い時分から生死(しょうじ)を深く身近に考えることを強いられた石井が、劇画作品や映画に人間の死を多く取り入れるようになったのは自然な帰結だろう。

 『ヌードの夜』(1993)も、だから死者が出現し、葬られる過程を丹念に描いた作品だった。学生のときに乱暴されたおんな(余貴美子)は加害者の男(根津甚八)の歪んだ愛情に捕縛され、都会の隅で事務員として働きながらも男との密会を延延と要求されてしまう。会うたびに金をむしり取られて、青息吐息でようやく生きてきたのだけど、別な男との結婚話が持ち上がり、膠着状態から脱け出すために男の殺害を企てるのだった。ホテルに呼び出された男は浴室でおんなから襲撃を受け、包丁で滅多刺しにされて絶命する。

 おんなは事前に代行業の男(竹中直人)と接触しており、自分に寄せる好意も計算に入れて、浴室に残し置いた遺体の後始末を仕向けるのだった。何も知らずに翌朝のこのこホテルの部屋を訪れた代行屋は、浴室を見て仰天する。一度は泡を食って逃げ出そうとしたものの、フロントでの受け付けも代行しており、室内に指紋をべたべた残している状態でもあるから早晩容疑者として手配されるのは間違いない。代行屋は部屋のなかを忙しく行き来し、次第に恐慌をきたしていく。

 何か前科でもあるのだろうか、警察に追われれば逃げ切れずに逮捕され、犯人にされてしまうと観念したらしい代行屋はなんとか気持ちを取り直し、一旦自宅に帰って大きな旅行用のキャスター付バッグを持ってくる。死体を中に押し込み、隙間に手当たり次第にドライアイスを詰め込んでバッグと共に遁走するのだった。

 私の手元にこの『ヌードの夜』の準備稿がある。実際に仕上がった映画とは少し趣きが違っているのだが、浴槽で息絶えている男の描写が興味深い。「見知らぬ男(行方)が屈葬スタイルで動かない。バスタブの底も血で赤い」と石井はト書きに記したのだった。(*1) おんなから行方(なめかた)という男の存在を聞いていない代行屋にとっては初対面でいきなりの展開である。その行方が「屈葬(くっそう)」の形で死んでいる。

 役者とスタッフに準備をうながし、円滑な撮影を願って書かれた事務的な状況説明に過ぎないと断じることも可能だ。次のシーン以降に展開する旅行バッグへの押し込み、その行為と様子につき連想を誘う助走めいた役割があったと理解も出来よう。

 でも、「見知らぬ男がうずくまって動かない」とか「見知らぬ男が死んでいる、顔はうなだれ見ることができない」でもなく、「見知らぬ男が窮屈そうに手足を曲げてバスタブの一方にぐったりしている」というのではない。極めて強靭な印象を与える「屈葬」という宗教用語を挿し入れている。その字面と響きには特殊な後押しがあるように感じられる。石井隆の死者への想いを嗅ぐ。

 私たち観客は日常の暮らしや仕事に思いあぐねる身として、劇中でまだ生き残っているおんなと事件に巻き込まれた代行屋に自ずと目が行ってしまうのだけど、石井はこの「屈葬」という語句を投じて、その瞬間から行方(なめかた)という不器用な男の葬送の儀式を人知れず無言で始めている。密やかな弔意を発し続けて、そのまなざしは結局のところ終幕近くまで引きずられていく。生者と死者との間を往還しながら、離れることなく均等に視線は注がれるのである。

 続編に当たる『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では、今度は風穴を用意し、殺された男の骸(むくろ)を乾いた冷気に晒していく。台詞には死因を特定させないようにわざわざ風穴へ運んで「熟成させている」と説明させ、観客の多くも法医学はよく分からないがそんなものかと納得する訳なのだが、あれなどは「曝葬(ばくそう)」と呼ばれる古(いにしえ)の葬送手法の再現であって、『ヌードの夜』の「屈葬」と対を成す手向けの景色と言えるだろう。

 我々の先祖をさかのぼれば、風葬や洞窟葬を経て土に還った者たちに必ず行き着く。それが当たり前だったのだ。深く土を掘らない、立派な墓石を用意しない、薪や油を大量に投じない、それだからといって弔いに関して真剣さがなかったとは思わない。各地に残る横穴墓などはその遺物と私には見えるし、奄美群島の北東部に位置する喜界島(きかいじま)では明治10年頃まで慣習が生きていた。未開であるとか粗野であるという次元ではなく、死者に対する名残りや愛着から、また常世(とこよ)の捉え方の違いから、彼らは今のわたしたちより緩慢な方法を選んだに過ぎない。

 腰をすえてじっくり死者を見守ろうとする石井の劇は、常に一種の葬送の列となって生者と彼らを同じ空間に置くべく工夫して見えるのだが、その調子は生死(しょうじ)を機械的に扱いがちな現実の弔葬とはやや乖離した、素朴でどこまでも真摯な旧い儀式形態と通底するように思われる。

 生きる者たちを描く表層とは見えざる流れが劇中ひそかに動いていて、時に不自然と目に映る箇所が頭をもたげて出現し、訓練されていない観客には大いに慌てることになる。けれど、粘り強く目を凝らしていけば、その不自然さこそが実は物語の肝であると知れる瞬間が訪れる。作者が総力をあげて劇中人物の生死(しょうじ)を司り、大概の人がたやすく見限る相手を手放すことなく、孤軍奮闘しているのが次第次第に分かってくる。

(*1):『ヌードの夜』準備稿(赤色横書き題字) 36頁 シーンナンバー34 バスルーム

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