2014年2月27日木曜日

“哀しみの果ての硬変”~石井世界の涙⑤~


 劇画制作の最終段階で石井隆は「カンタッレッラの匣(はこ)」(1991─92 )という幻想譚を編んだのだったが、あれに描かれていたマネキン人形、等身大の三次元CG映像、そして狂女といった各キャラクターの乾いた横顔というのは、思えば“名美泣き”から涙の筋を奪った面影であり、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けないのだった。また、単行本でトリをつとめた傑作【主婦の一日】(1991)における名美は、夫と愛人の浮気現場を急襲し、包丁で滅多刺しして両者を殺害した挙句に自死の道を選ぶのだったが、そのような烈しい情動の時間をかいくぐっていながら一滴の涙も落とさず、嗚咽のひとつも漏らさない。

 雑誌の連載当事には、そんな“乾いたおんなたち”の出現が湿度あるこれまでの作品と容易に連結出来ず、特に人形やCGの跋扈(ばっこ)する展開に戸惑うところもあったのだが、こうして涙を熱視(みつ)める時間ばかりを経て思い至るのは、彼らこそが名美と呼ばれる存在の“最終局面”であったという厳かな感懐である。劇画制作の区切りの時期を迎えて、石井は意識して“その先の名美”を描いた可能性が高いように思うし、そうであれば合点の行くところが随分と多い。

 「カンタッレッラの匣(はこ)」の一篇【ジオラマ】(1991)にて石井は、性暴力の犠牲となり、以来十五年の長きにわたって悪夢に獲り込まれた狂女の症状を精神科の医師に解説させるのだが、その中で「彼女が本来辿り着くべき地平にあのショックで一足飛びに辿り着いてしまった」という深度のある言葉を添えていた。“本来辿り着くべき地平”という言い方は、誰でもが到達する地平という意味合いであって、異常であるとか、特別であるとかのニュアンスを含まない。他者との関係がきしみ歪んで双方をひどく傷つけ、大いに疲弊させた末に到達する一種の醸成された、寂れた境地をここでは指すように思う。

 舞台や物語の風合いをさまざまに工夫しながらも、石井隆という描き手は人間のこころの深層をこねくり出すことに勉めてきた。そんな男が“本来辿り着くべき地平”という段階が人の生にはあって、其処に降り立ったとき面体は硬変し、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けない無表情に近付くと語っている。

 手も足も出ない状況に置かれた悔しさを世界に向けて発信し、自らに代わって復讐をしてくれ、力を貸してくれと訴えるとき、人は涙を道具に使うと言われている。これに応えてすぐさま同調し、団結して難敵に向かっていくことで私たちの先祖は生き永らえて来たのだったが、いくつも周回を重ねることで最終的に人は道具としての涙を置き、助けを求めぬ清冷の境地に分け入ってしまうとどうやら石井は捉えている。そもそもが人は人を助けられない、という諦観が根底に置かれてあるのだろう。涙は流れても、おうおうと声上げて泣くことはない、そういう域に飛び込んでいる。

 近作『フィギュアなあなた』(2013)は連作「カンタッレッラの匣(はこ)」の息吹きを色濃く反映させた内容であり、マネキン人形が突如生命を与えられて若者の危機を救い、同棲を始めるという奇想天外の御伽話(おとぎばなし)であった。当惑を隠せない観客も出て、こんな石井隆は観たくないと書く者もさえ現われる始末なのだが、それは視野角の微妙なずれのようなもので立ち位置を少し変えれば得心する話なのだ。私の目には『ヌードの夜』(1993)や『GONIN』(1995)といった峰々と稜線をなだらかに繋いで、神々しく光って見える。

 私たちはあの人形(佐々木心音)の乾いた瞳に、一周どころでなく何周も先を走ってひどく硬変してしまった名美の内実を探って良いのだし、どう足掻こうにもおんなに追いつけず、夢にも似た併走を一旦終わりにするしかなかった若者(柄本祐)の暗澹たる表情に、後追いする村木の変わらぬ純真を重ねるべきなのだ。

 近いうちに再度、香しき百花繚乱のドラマを編んでくれると信じるが、石井が映画雑誌のインタビュウで“遺作”とまで語ってみせるのは、おそらく人の情念の最終形態と解釈する姿をおのれの映画制作の最終段階で満を持して描いているからに相違なく、そういった意味でも迂闊なことは語れない底知れぬ作品が『フィギュアなあなた』のように思われる。
 


“陶磁器のように硬く”~石井世界の涙④~



 石井隆の描くおんなの泣き顔、そこには独特の風合いが宿っている。そこで、関連書籍(*1)を幾冊か手元に置いて、涙、そして、泣くこと、という側面から石井作品を眺め直そうと思い立つ。結果はどうだったかと言えば、宙ぶらりんの気分を今は味わっているところだ。どこかで接点は見つかるだろうと頁をめくってみたのだけれど、この“名美泣き”に符合する記述に出合うことはなかった。

 喜多嶋舞が渾身の演技で造形し、フィルムに焼き付けた『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)での名美は、能面のように硬い表情で前を見据えたまま涙腺を決壊されていくのだったが、あれこそが“名美泣き”の典型だろう。(*2) 読者や観客は前後の流れからおんなが泣いている、と理解するのだけれど、そのコマなりカットだけを切り出してしまうと判然としなくなる。涙の筋をそこに見止めなければ、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けないのが“名美泣き”である。

 我が身を振り返ってみて、あのような泣き方はしていない気がする。感情がばんばんに膨れ上がって泣く瞬間に人のほとんどは顔面の筋肉を収縮させるものだし、紅潮したり、歯を食いしばったりする。身体を海老のように曲げたり、腰が抜けたりする。映画館のスクリーン側にそっと立ち、呆然として紅涙を絞られる観客を仮に観察出来たとすれば、整然と彼らは座っているわけだから“名美泣き”に少しは近づくように思うが、さめざめと頬濡らす瞳の周りはぐわっと力んでいるのだし、眉だって多分八の字を作っているはずであって、やはり陶磁器のような硬く白い面立ちを維持し続けることは困難だろう。改めて考えれば、実に不思議な面相である。

 不思議と言えば、容貌だけでなく、その力や役割においても石井世界の劇中の涙は独特ではないか。涙には共振を誘い、復讐へと誘惑する力があるとも言う。エチオピアの軍事暫定政権は行方不明の息子の母親が泣くことを有罪にしたという逸話があるのだが、これは涙を見せられた他者が耳を傾け、酷(ひど)い仕打ちに怒り、そこから本格的な政治討論へと発展するのを恐れたためだ。涙は世界を変えようとする。現実であれ空想であれ、具体的な行動に駆り立てる魔術的な再創造の場へと目撃者を導く。そのように流麗に本の作者は語るのであったが、はたして石井隆の劇中に流れるおんなの涙はどうであろうか。

 私たちは傷心の名美と共に立ち上がり、男たちに刃(やいば)を向ける気にはならない。復讐を経てカタルシスを得ようとする段階はとうに過ぎた、外界に作用をおよぼす余白の無い、放り投げられた心持ちになるばかりだ。

 ある人は涙を流す五つの場合として、歓喜、悲観、安堵、感情移入、自己憐憫を上げるのだが、涙する名美というものは、単純に悲観や自己憐憫により泣き暮れているようには見えない。ここのところも通常のドラマとは隔たりがあるように思う。内心に渦巻くものをひとつの言葉で括ることを許さぬ、方向性を持たぬ泣き顔が展開される。

 本当はおいおいと声上げて泣きたいのだろうか。我慢に我慢を重ねているのだろうか。情炎の作家である石井の劇空間において、おんなが涙を流すことは決して珍しいことではないのだが、その泣き方は極めてストイックだ。ゆがんだ顔や嗚咽を回避したり、押しとどめる力が働いているのではないかと勘ぐってしまう。終戦の翌年に生を受けた石井が戦時中の教育や世相に引きずられ、廉恥心(れんちしん)の考えを叩き込まれた末に涙を抑圧する気質を育んだ可能性は否定出来ないから、それが石井世界の全篇に乾いた風を送りこんでいる、なんてことはないだろうか。

 いやいや、それは例によって私の馬鹿げた妄想だろう。石井ほど涙にこだわる作家もいない。それは先に書いた通りだ。結局のところ、よく分からない。おんなの涙にとことん弱い私は、背中のむこうの微かに震える気配に気を取られ、宙ぶらりんの心持ちのままいつまでも揺られ続けている。


(*1):参考文献「人はなぜ泣き、なぜ泣きやむのか?涙の百科全書」 トム・ルッツ 八坂書房 2003 「女の前で号泣する男たち 事例調査 現代日本ジェンダー考」 富澤豊 バジリコ 2008

(*2):私たちの涙は涙嚢(るいのう)や鼻涙管などを経て鼻腔へと流入するものだから、鼻水をすするという動作を意識的に差し挟まなければ鼻の穴からも大量の分泌物を溢れさせるはめになる。喜多嶋は名美という存在が避けて通れぬ“哀しみのフェーズ”を理解し、一切の表情を殺して臨んだのであったが、生物としての宿命ゆえに涙はおびただしい液体となって瞳に限らず彼女の顔全体を濡らした。わたしはその様子に惚れている。

美しさとか世間体に囚われて表層的な演技しか出来ない我が国の俳優の大概とは違い、昨今の欧米の役者と彼らを盛り立てる演出は豪胆さ、凄味を増している。ひとの魂と生理とがいかに密接に絡み合っているかを理解し、果敢に描写を続々と叩き込んで圧倒されるばかりだ。嘔吐や排泄についても論法上避けられないと思えば徹底的に見せてひるまないのだけど、喜多嶋の涙する名美は十分それに肉薄しており、見事としか言いようがない。

“名美に成らざる者” ~石井世界の涙③~


 『死んでもいい』(1992)の終盤に見られる大竹しのぶの、幼子(おさなご)にも似た大泣き。実はこれに似たものが石井隆の劇画に見つけることが出来る。【キリマンジャロをもう一杯】(1976)という題の中篇であった。仕事で悩みを抱える男は立ち寄ったレコード店で万引きの現場を目撃し、店員に見つかって窮地に立った女子高生を救ってやるのだった。礼も言わずに男を睨(ね)め付ける娘であったが、気分が悪くなったと下手な芝居を打って男をホテルに引きずり込み、その全身(からだ)を預けようとする。

 憤懣(ふんまん)を溜めまくった男に取っては渡りに船であるのだが、娘の言動の端々には幼さが露呈し、昏迷を極めてどうやら捨て鉢となっている様子である。事情を察した男は寸でのところで冷却し、娘に対してやさしく帰宅をうながすのだった。さて、このとき娘は唇をゆがめ、眉根を寄せる典型的な“泣き顔”を作り、涙を糸となしている。なんと合計5コマにも渡って泣いているのである。石井劇画では異例の動作だ。

 ここで注視すべきは過剰な涙もさることながら、感情の波が引いた後の娘のさっぱりした表情であって、誇張された天真爛漫そのものの笑顔は私たちの内側に妙に突っ張った違和感を築くのだった。目鼻立ちや均衡のとれた肢体、それに当初の不安げな瞳は私たちに馴染みのおんな“名美”そのものであったのに、今ではこのような名美はいない、という確信が湧いてくる。まったくの別人格を宿して見える。実際、石井は【キリマンジャロをもう一杯】の劇中、この娘の名前を明かす台詞なり小道具を配置しなかった。代わりに過剰な涙と嗚咽を付け足すことで、“名美に成らざる者”を産み落とそうと努めて見える。

 その事は、同じ制服姿の娘を主人公に据えた【爛れ】(1976)と比べれば明白だろう。石井は同じような目鼻立ちのこちらの娘に対し、住まうアパートの部屋の名札や新聞記事の一部を拡大してこのおんなが“土屋名美”という存在だとくどくどしく説明するのだったし、呼応するようにして涙をひとコマに限ってにじませるという細かい演出を施している。

 つまり石井隆の世界において、絶対的に涙や泣き顔が隠蔽されていくという訳ではないのであって、“名美”的な人格が付与された際にはじめて抑制なり遮断が起こって劇の様相、人物の面貌を変えていくという事なのだ。情動の白波に洗われる物語にありながら、魂の描写はことさら微細化する。見えるか見えないか分からぬひと筋の涙の背景には、作者の底知れぬ想いが積み上がって感じられる。

 “名美泣き”を付与された人格と、そうではない人格の間に何が横たわるかと言えば、感覚的な物言いになってしまうが“周回の違い”が在るだろう。並走しているつもりでいるふたつの魂の足元に見えざるラインが引かれており、一方が他方より既に何周分も余計に走っている。それが石井の劇によくある酷(むご)さであるし、名美という造形の中核となる圧倒的な重さだろう。

 ゴールは目前であるが、動悸は早鐘のよう、腱も悲鳴をあげて裂傷間近であり、地に伏してしまえば二度とそのまま起き上がれそうにない。それに気付かぬまま周回遅れの並走者は快活に微笑み、エールを送り続けてしまうのである。そんな酷薄さを含んだ時空を石井は飽くことなく描いてきた。石井の劇とは突き詰めれば、孤別に立ちゆらめく時間軸の酷さ、哀しさなのだと思う。ひるがえって見れば、それはそのまま私たち、個として暮らし集っていく人間(ひと)の宿痾である。

 涙の観点から映画『死んでもいい』を再度たどり直せば、これはひとりのおんなが“名美的な者”つまりは周回を重ねた者へと変貌する過程を描いていたとも言えるだろう。相愛の仲となることで天空へ飛翔し得ると信じたのに、世界がどのような黒い波に洗われても互いが神となり鬼となって加護し合うものと信じていたのに、男は自分を殴ると言い出し、実際に手を振り上げたのであった。売り家のがらんとした部屋で一方的に迫られた交接であったが、あの時はこころと身体を許し、愛を信じたおんなが今、ホテルの高層階の浴室で暴力の嵐に遭っている。結局のところ、強姦は強姦でしかなかったのだ。時空を経ておんなの心は漂流を止め、フィールドを再度駆け始める。周回を経てゆるゆると目覚めたおんなは、ようやく名美となって涙を一筋こぼしていく。