2020年7月19日日曜日

“腕時計に執着はあるか” ~石井隆の時空構成(5)~


 大時計のアップで始まり、同じくその針を凝視して閉じられる【三十分の街】(1977)。読むと石井が時計に関して強い愛着を持ち、劇中に好んで配すると早合点されそうだが、実際はそうではない。むしろ石井の中には時計全般へのこだわりは無い。

 石井が一度これと決めた物へのまなざしは、特有の厚みと粘度を帯びていく。ライター、ハンカチ、櫛(くし)、コート、拳銃、鯨の置き物といったさまざまな物がこれまでスポットライトを浴びてきた。それら選ばれた小道具には、死別した者への切実な祈りが託され、また、親切心やほのかな愛情といったどちらかといえば報われない想いがそっと宿っている。言葉にできない思念を現世に保留する工夫として、彼らは石井作品を彩ってきた。その中に「時計」は含まれていただろうか。

 【三十分の街】を読み進める読者の目には、男の手首にはまった腕時計が繰り返し飛び込んでくる。おんなの身体に回した腕がコマの前景をガバッと横断して、意図的に腕時計を見せつけると解釈出来なくもないけれど、石井隆の劇画を舐めるようにして読めば、性愛の只中での腕時計の着装率はきわめて高くて【三十分の街】に限った演出ではないのだ。

 【緋の奈落】、【水銀灯】、【やめないで】、【蒼い閃光】(いずれも1976年発表)といった作品内の男たちは、服を脱ぎ捨てても腕時計は外さない。下着を脱ぎ捨てても時計のベルトを弛めないままの姿も散見される。使用時間ごと料金の変わるホテルを利用する身として便宜上どうしても外せないでいるのではなく、男性の身体をめりはりを持たせて描く手段として腕時計が登用されて見える。それとも、都会に暮らす勤め人と分かるように襟章代わりなのか。

 いずれにしても彼らは腕時計の文字盤を一度も覗くことなく、面前に波打つおんなの乳房やくねる首すじに視線は釘付けとなる。ざわめく事態のはざまにあって、腕時計は時刻を知らせる役割を放棄する。

 後年石井が撮った映画『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では、腕時計は死肉をこびり付かせた忌まわしき遺品でしかない。かつて着装していただろう故人に対して、登場人物および観客の想像力は最後まで起動しない。今はどこにもいなくなった人間の物腰や言動を推理し、懐かしむための引き金とならず、どこまでも金銭的な価値を探られ、完全犯罪を瓦解させ得る証拠物件といった全く人情味を喪失した小道具へと貶められる。石井世界の腕時計の本質をそれとなく示唆する場面ではないか。

 タイトルに具体的な時間を挿し入れた【三十分の街】という作品は、ともすれば単純な時計や時間を主軸にする作品と思われてしまうが、実態はそうではないのだ。あくまでも駅という公共の構築物に設置された「大時計」の描写こそが重要なのである。腕にはまった「個人の時間」ではなく、誰ひとり持ち出すことが出来ず、粛々と時を刻み続ける「公の時間」がクローズアップされており、為すすべなく従うしかない、絶対に勝てない相手として「大時計」が君臨している。

 その面影は私たちの胸にひたひたと染み込んでいく。容易に洗い流せるものでなく、すぐに揮発するものでもない。深く浸透したその面貌(かお)は沈降する香りをじわじわっと蓄えて、登場人物と私たちの胸を知らず知らず圧迫する。



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