2019年4月28日日曜日

“地を這う二筋のもの” ~歓喜に近い愉悦~(7)


 映画監督石井隆の処女作『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)には、観る度に強い感興をもよおす場面が含まれる。石井の劇空間を愛するひとにはよく知られたカットだが、床面を這う二筋の小水が交じり合うのだった。

 夜勤の看護士のおんな(桂木麻也子)はある日、患者から暴行されかけて深く傷つく。へとへとになって帰宅してみれば、留守中あろうことか恋人が別のおんなを部屋に引き入れているのを目撃する。寄港を情無用で拒絶された不運な旅客船のようにして、あたふたとおんなは部屋を飛び出していく。もうひとりの主人公である男(竹中直人)は証券会社の営業職であるのだけれど、急場を凌ごうとして客から預かった金に手をつけ、目論見は当然ながら崩れて進退が窮まっていた。どうしよう、もう駄目だ、頭がはち切れんばかりになってハンドルを握っていると急に前方の視界を影がよぎり、とっさにブレーキを踏んだが間に合わずに撥(は)ねてしまう。疲弊し尽くした男女ふたりが偶然に路上で鉢合わせし、交通事故という最悪の形で出逢ったのだ。

 男は絶望の黒雲に包まれながらも保身と自棄が半分半分の逃避行に走り、意識のないおんなを助手席に押し込むと廃墟ビルに連れ込んで軟禁する。そこから奇妙な隠とんの時間が始まるのだけど、ある時、ふたりは同時に尿意に襲われてしまい部屋の左右に分かれて緊急避難的に排尿を行なうのだった。すると何ということか、両者の小水は球根が根を伸ばすように床面をゆっくりと這い進んでいき、やがてひとつに交じり合ってしまう。これにはひどく驚いたし、また奇妙な感動を覚えた。

 体温を帯びて床面に放出され、十分には冷却されていない二種類の体液が右と左から部屋の真ん中にやって来て、たぷたぷとわずかに波打ちながら合流していくその奇観はどこかほのぼのとして温かい、のどかで幻想的な面立ちと感ぜられたのだけど、感動の正体を十分に摑めないのだった。不浄とは思わず、扇情されることもなく、どうにも表現しにくいもどかしくも柔らかい気持ちにぼうっと包まれた。ただただ不思議な感覚ににじり寄られながら、言葉無く混合する様子を見守った。

 男とおんなの警戒がほぐれて、意思の疎通が開始されたという意味合いだろうと推察されたものの、これを小水で表現するというのは尋常ではない。私たちは小水を使ってのそのような交感の術を通常は持たないし、普通は試そうともしないだろう。

 「血」が混じる、「血」に擦り寄るという場面は映画や小説に探せば幾つも見つかり、また、そんな描写に私たちは理解と共感を覚えもする。血は我が国の劇づくりで瞬間接着剤のようにして人と人の隙間を埋め、情感を高め、口に出来ない様ざまな想いを代弁してきた。それは歌舞伎でまず実践され、現在の石井隆作品を代表とする血の活劇へと至る道である。

 坪内逍遥(つぼうちしょうよう)は幼い日から歌舞伎の舞台に親しみ、其処で受けた衝撃と困惑、そして愛着を連綿とある文章に綴っている。「昔は、すべての殺傷の場では、蘇芳(すおう)汁(*1)を、それはそれは夥しく使ったものである。そうして、いよいよ絶命するまでのディテールの長くあくどかったこと!」「ああ、何だか、色ッぽいような、無気味なような、妙にごたついた、奇妙な変な夢を見たとばかり思ふやうな感銘を残させる」「この残忍を好み、猥褻を喜ぶという情癖は、それが彼の原始時代には最も大切であった戦闘本能の一面の現れであるだけに、(中略)依然として潜在していて、何等かの大変動によって、一旦自制力を失ったりといふと、卒然として発作するものであるらしい。」(*2)

 このように「血」であるならば、私たちの細胞に居座りつづける本源にすんなり直結して素直に了解されるものだ。たとえば谷崎潤一郎の「お艶(つや)殺し」の作品の中盤に血みどろの描写がある。自分に恋着する男の心を利用して、邪魔と感じる別の男の殺害をけしかけて成功させるヒロインお艶は、道具に使った新助を上手くなだめた上で「小躍りして喜びながら、血糊だらけの男の胸に跳びついた」のだった。識者のひとりはこの場面について次のように綴る。作品を「支える殺しの美学、それがもたらす戦慄は、情念的であるよりは、ひどく官能的である。流血は女体の官能をかきたて、官能は血を吸って美しく肥え太る」のであって、「血糊だらけ」は単純な場景説明ではないのだ。「生死のあわいに噴出する情念」「高揚する観念」「あるいは臨終(いまわ)のきわに戦慄し、痙攣する心理や感情」「つまりは、いっさいの人間的なるもの」を代弁するところが流血場面にはあると分析している。(*3)

 普段はあまり深く考えないが、物語空間における「血」とはそこまで饒舌なものであるし、共通言語となって即座に情報や想いを伝える能力を具えている。現実においても歴史資料館などで血判状と呼ばれるものを目にすると、そこに込められた人々の窮迫を認め、極めて人間的な声や動作が次々に浮んでも来る。あれなどは「血」の力が時代を越えて影響することを示している。

 現代劇において『天使のはらわた 赤い眩暈』と似たようなカットを探せば、小水ではなく「血」であるならば即座に見つけることは出来る。ある空想科学映画の終幕は真新しい雪の上で男とおんなの血が交じり合うカットであり、『天使のはらわた 赤い眩暈』と様態が極めて似ている。空飛ぶ円盤の目撃者の血液成分に変異が生じてしまい、鉄分が銅へと入れ替わることで色素が赤色から青色へと極端に転じてしまう。それが母から子へ遺伝的に継承される事が判明し、社会と政治にどんよりとした恐怖が蔓延した末に全地球的な聖夜の大量虐殺へと発展していくのだったが、絶命したおんなの血がとろとろと雪面を這い進んでいき、男の身体を染めるものと一体になる最終場面の構図は私たちの脳内で容易に消化されて瞬く間に血肉化されたように思われる。添い遂げる事が出来なかった恋人の無念を思い、また、血の差別という字面を通じて歴史の反省と未来への警告を読み取った。「血」は、その交わりは、去来する想いに一瞬で充たされる。(*4)

 『天使のはらわた 赤い眩暈』の廃墟ビルの一室で、おんなの股からいつまでも止まらぬ血が流れ続け、反対側に立つ男の性器からこれも憐れなるかな血尿が凄まじくほとばしり続けてやがて合流するようであれば、これは先の識者の表現を借りれば「臨終のきわに戦慄し、痙攣する心理や感情」が出るにしても両者はそこで貧血と腹痛で青ざめ卒倒し、もう隠とんどころではないよね、恋路も浪漫もどうでもよい、救急車を呼ぼうよ、あっ、サイレンの音、やっと来たね、それじゃさよならね、悪いことしたね、じゃあね、でお話は終わってしまうから駄目なんだけど、では小水が平穏無事にちょろちょろと流れ下って交じわっていく事が普通であるかといえばやはり頓狂なところがあって、そんな場面を映画にしてみようと考える石井隆はやはり面白く、まったくもって特殊過ぎる思想家である。

(*1): 蘇芳色(すおういろ)とは黒味を帯びた赤色。蘇方色、蘇枋色とも書く。蘇芳とは染料となる植物の名前で、インド・マレー原産のマメ科の染料植物を指す。心材や莢にブラジリンと言う赤色色素を含み、この色素を用いて明礬で媒染すると赤色、木灰などのアルカリ性水溶液だと色見本に似た赤紫、鉄を用いると黒っぽい紫(似紫)に染め上がる。今昔物語では凝固しかけた血液の表現にも使われている。(wikipediaより)
(*2):坪内逍遥 「東西の煽情的悲劇」 春秋社 1923
(*3):「近代文学における流血と死 森鴎外と三島由紀夫」 蒲生芳郎(がもうよしろう) 「日本における流血と死の哲学」 菊地久治郎 編  帰徳書房 1954 所載 11頁、18頁
(*4):「ブルークリスマス」 監督 岡本喜八 脚本 倉本聰 1978


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