2019年4月30日火曜日

“人間の真実”~歓喜に近い愉悦~(10)


 せっかく折口信夫(おりくちしのぶ)に触れたのであるから、最後にそこを火口(ほくち)にして『花と蛇』(2004)に横たわる「不在」について書き添えたい。『花と蛇』でおんなを拐(かどわ)かすことを命じた田代という老人(石橋蓮司)は配下の男から“まれびと”と称される。しばらく前にある会合で『花と蛇』の“まれびと”って何だろうね、変な言葉だね、と話題に上った際にすかさず折口信夫の名を返してきた編集者がおり、さすが三百六十五日を文章に捧げている人は違うと唸った。えっ、オリクチ。あれ、違うかな、ごめんなさい、で会話は終わってしまったのだけど、瞬時に言葉を結線させる速さと管轄領域の広さには舌を巻いた。この奇妙な呼び名は劇中に一度きりしか出て来ないのであるが、内実の詰まった質感を映画全体に与えているように思う。

 さて、“まれびと”とは折口が蒐集し展開させた異界の者を通常は指す。折口自身の著作に追えば、次のような一文が返ってくる。「まれと言う語の溯(さかのぼ)れる限りの古い意義に於て、最少の度数の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び継承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひとは来訪する神と言ふことになる。ひとに就て今一段推測し易い考へは、人として神なるものを表すことがあつたとするのである。人の粉した神なるが故にひとと称したとするのである。」(*1)

 民俗学と石井隆はあまり繋がらないように思えるが、神と石井のラインというのは軽んずる事が許されない間柄である。西洋絵画を通じて信仰に触れ、これを大胆に引用して独自の伽藍を築いてきた石井隆であるから、どうしても私たちはキリスト教的なイメージと石井の創る映像を重ねようと努めてしまうのであるが、もしかしたら石井は土着的な我が国の神仏や呪術についても消化し、「気付かせないで見終えるくらいの」繊細な匙(さじ)加減でそれ等の要素を振り掛けているのかもしれない。

 巨額の富を持ち、政財界を牛耳る田代老人は神に似た万能力をふるう存在であり、確かに“まれびと”という綽名(あだな)もふさわしいように感じるが、そう納得すればするだけ寂寥とした想いが湧き上がる。私たちの見知った甲斐性なしのこころ優しき凡人“村木”とはまるで違った存在がおんなの前に出現している、その事のどうしようもない「不在」の寂しさである。

 役者石橋蓮司の強烈な容貌と、終幕での床面を蛇状となって這い伝う驚くべき演技にひどく圧倒されてしまった私たちは、田代という男を醜悪な怪物、人ならぬ欲望の権化というイメージで捉えている。それはそれで驚嘆と熱狂がフィルムに宿った証しであるから素晴らしいことなのだが、最初のモニター越しにヒロインを発見し恋に落ちる状況と、本来あるべき救出者としての立ち位置をよくよく意識すれば、あれだって“村木”の変奏と言えそうだし、たとえば演じ手として根津甚八という線だってあったかもしれない。身体を壊した上に不運続きとなり、当時世間から身を隠すようにしていた根津を視界の隅に置いていればこそ、役柄として無理をかけない寝たきりの、移動するときは車椅子の“村木”像が石井の脚本に現出した可能性もあるように思う。

 それでは百歩譲ってあの怪物が村木であったとして、劇の様相は変わったであろうか。美丈夫の片鱗を残した白髪の老紳士だったらどうだったか。趣きは違ったかもしれないが、本質は何も変わらなかった。石井の監督した映画作品の台本をいくつか入手して完成されたものと照合すると、綴られた内容とフィルムに定着したものに乖離がほとんど生じていないことが分かる。それは『花と蛇』でも同じであっただろう。田代はあの通りの田代であり、我々がよく見知った金はないけど手と口を出す村木ではなく、金は出すが手を出さなければ言葉も発しない何処か隔てられた場処にいる神だった。

 また、端的に“まれびと”とは秋田のナマハゲに代表される山海の神であり、祝祭の日や年越しの夜に現れて村落の家々を廻る異形の者たちを指している。こちらの方がよく知られているのではないか。彼らがやって来る目的は何かと言えば「地域社会の側からすればどちらも年/季節の変わり目に福をもたらす「来訪神」であることに変わりなく、どちらも歓待すべき対象であった」(*2)のであって、つまりは異様な風体はしているが「福の神」であった。

 「福の神」であるべき者がおんな(杉本彩)を最終的に狂わせ、歓喜に近い愉悦とは程遠い無限回廊へと突き落としている。この点に関しても私たちは咀嚼する必要がある。石井隆はすれ違いの景色をたくさん描いて来た。人が人を救うことなど容易なことではないのにそれでも声を掛け、どうしても手を差し伸べてしまう男がいる。そんな視線があるのをおんなは気付いているのだが、結果的に両者の想いは結実しない。短絡過ぎるかもしれないけど、そんなすれ違いが縷縷綴られている。『花と蛇』はすれ違ってもいない。ここまで噛み合わない神とおんなというのは絶望的である。

 最後の最後までおんなは神の意図を知ることがない。そもそも神の意図するものが私たち観客にもよく分からない。人工的な地獄を金に飽かせて造り上げ、そこにおんなを陥れて苦境を演出する。田代老人はそこに颯爽と現れておんなを救う振りをする訳でもなく、むしろ彼女の逆襲を怖れて拳銃を携える始末である。“村木”的ポジションの男が滅多矢鱈に苦境だけを築いていく『花と蛇』の展開は、石井の作劇の流れのなかで最も漆黒の闇に閉ざされ光の見えないドラマとなっている。原作を貫く無限地獄と通じるところがあるから、問われたなら石井はそれが狙いだったと答えるのだろうか。

 それにしても痛々しく、積年のファンは古(いにしえ)の処刑道具、鋼鉄の処女に放り込まれた如き気分になる。石井の創作の脊髄となっている“救出”の完全な「不在」をこそ、ただただフィルムに刻印すべく徹底して骨折っているようにしか見えない。

 上に写した折口の文章の別の箇所に、次のような記述もある。「まれびとは古くは、神を斥(さ)す語であって、とこよから時を定めて来り訪ふことがあると思はれて居た」(*3) とこよとは「常世」であり折口は「理想郷」と説明しているが、私たちの概念に広く巣食う「常世」とは死者の国、黄泉も含まれている。過去どこで何を喪失したのか明確には語られないが、田代老人はおんなの踊る姿をモニター画面で見初(そ)めて奮い立ち、無謀な行動を起こす。けれど、満身創痍で車椅子から立ち上がる事すら叶わないのだ。「死」の重い霧に全身を包まれていて、それでも失った過去を蘇えらせようとして躍起になるのだが、結局は救出なのか復讐だったのか、それとも追憶だったのか、一向に判然としない男の目論みは完膚なきまで瓦解分裂して総崩れとなるのである。

 “村木”の不在、救出の不在、死の霧の蔓延。“まれびと”という呼び名の採用はわずか一行、一瞬であるのだが、その背景には極めて暗いものが渦巻いている。石井は作品自体から離れた解釈を嫌うだろうが、当時の石井の真情が漏れ出ているのではないかと私はしつこく疑っている。身近に起きた家族との永別がそれ等を呼び込んで見える。映画の制作は大金勝負だ。数千万円、場合によっては数億円を預かる立場の者が私情に流されるのは危険だし許されないのだろうが、ひとりの画家、創作者、人間として見るとき、それは防ぎようがない事だし、当然許されてしかるべき性格のものだ。いや、むしろそうありたいように願う。それが私たち観客が本来待ち望む芸術ではなかろうか。

 人が人と知り合いそれぞれを愛することの本当の姿を、別れることの身を切る辛さをフィルムのコマに焼き付けている。失意のどん底にある友人を慮りながら、けれど、これまで積み上げてきた画法と文法をずたずたにして己自身を思い切り鞭打っていく。それが石井隆であり、彼の『花と蛇』であった。ここまで自分を責めて責めて、さらに責めぬく公開処刑じみた作業を自ら強いる作家をそう多くは知らない。人間の真実が透かし込まれているから、あんなに荒唐無稽なのに私たちの胸ぐらを摑んでいつまでも離さない。


(*1):「国文学の発生(第三稿)」折口信夫 1929 「全集」第1巻 中央公論社 1995 所載。「魂の古代学―問いつづける折口信夫」 上野誠  新潮社 2008 101-102頁より転記
(*2):「「来訪神」行事をめぐる民俗学的研究とその可能性」 石垣悟 「来訪神仮面・仮装の神々」岩田書院 2018 所収 71頁
(*3):「国文学の発生(第三稿)」折口信夫 1929 「無形文化遺産の来訪神行事」 福原敏男 「来訪神仮面・仮装の神々」岩田書院 2018 所収より転記 14頁

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