2018年1月8日月曜日

“雌雄同株” ~活劇の輸血(3)~


 石井隆による隠し絵のひとつ、単行本「パイソン357」(1981)のカバー絵柄で何より重要なのは、スチルにこもる“男優”の息吹や緊張を大胆に“おんな”へと移植している点だ。

 1987年に知人の野辺送りに参列して以降、石井の内部で性差への思索が深まり、【酒場の花】(1988)、【月の砂漠】(1989)という傑作を世に送り出している。特に【月の砂漠】において名美は性を越境し、どこまでも静謐な存在となって雨中に立ちすくんで圧巻だったけれど、そもそも最初から石井の内部においては、男らしさ女らしさという言葉にあまり縛られない均一な視線が具わっているのであって、「パイソン357」のイメージ移植はその証左となっている。

 物腰や口調であれ、瞬発力や持久力といった運動機能が試される闘いの場面であれ、石井は男らしさやおんならしさをあまり追求しない。やる事は一緒であり、どちらも美しく、または不様であって、男だから格好が付くとかおんなだから似合うとか、そんなフィルターに縛られない。

 性愛を粘っこく描写して世に鬼才とまで形容される石井に対して妙な事を言う、と首を傾げられそうだが、たとえば名美の台詞と行動を村木のそれに替えても、相応にドラマは弾んでいくのではないか。漆黒の闇に血しぶきの花弁が咲き、恋塚は次々に建っていくのではないか。

 男女それぞれに身体器官の束縛を受け、思考や行動に段差が生じるのは当然であるし、そこに現世(うつしよ)の妙味が醸成するのは当然であるけれど、人が人を愛したり、気遣ったり、境遇を理解して手を差しのべる魂の伸縮や色彩の変化というのは、八割方は誰でもが同じじゃないか。振り返れば石井の劇に充ちるまなざしの質感とは、どちらかといえばそんな柔和な、中性的なものが大勢であった。男である、おんなであるとこだわり過ぎることは劇中で尖った障壁となって行く手を阻み、登場人物をひどく苦しめもした。性差の記号に埋もれることは地獄にも似た風合いを舞台にもたらした。 

 男がおんなの身体を得て【月の砂漠】に舞い降りたことの逆の発展形として、名美の魂が『GONIN』(1995)の三屋純一という青年に化身し、愛しい相手に追いすがり夜の街を疾走することは不思議でもなんでもなく、石井の劇では自然この上ない系譜であるのだし、『黒の天使 vol.2』(1999)で主人公のおんな殺し屋(天海祐希)をいたわる組織のボスが、ママと呼ばれる女装者であることも空気のように馴染んでやさしい風を送ってくる。性別に囚われない者には、等しく穏やかさと優雅さが付与されていく傾向がある。

 石井の監督作品で長く撮影を担当している佐々木原保志(ささきばらやすし)はインタビュウに答え、石井作品の基幹を「ある意味では人間賛歌」と説いている。(*1) 的を射た表現であり、これに勝る一文はそう見当たらない。石井隆は何を描こうとして来たか、何を追い求めているか、表層に溺れて消化出来ない読み手も幾らかいるのだが、突きつめれば自分なりの絵具とタッチで“人”への愛しさを光で紡ぎ、共振を雨音に変えているように感じられる。
 
(*1):「撮影監督」 小野民樹 キネマ旬報社 2005 155頁 



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