2018年1月6日土曜日

“交差する樹根”~活劇の輸血(2)~




 若い時分の女優の映画スチルと劇画のひとコマを透かし見る行為に、大概の人は呆れているに違いない。妄想癖に付いていけない、誰からも𠮟正されぬのをよいことに当て推量を吐き散らすのは実に危うい話だよ、石井隆を貶めることにもきっとなるに違いないから、いい加減にもう口を閉ざすべきじゃないのか……。

 では、こちらの相似はどうであろう。【黒の天使】(1981)と波長を同じくする殺し屋の話が数篇あり、そこから波及して描かれたのか、それとも先にこっちが産み落とされたのかは不明だけど、単行本「パイソン357」(*1)のカバーを飾った絵がある。1981年に発行された一冊であるのだが、拳銃片手に肉弾戦に臨まんとするおんな殺し屋が、雨のしとしと降りしきる鉄道操車場を駆け回る様子が明暗を強調したタッチであざやかに描かれている。

 幽かな音を聞いたのか、男物の曇った化粧香でも嗅いだのか、それとも粘り気のある邪視をうなじに感じたものか、ぞくぞくっとおんなは戦慄し、勢いよく背後を振り向いたその一瞬の景色が切り取られていた。何という躍動的な絵柄か。年齢相応に新陳代謝が衰えて、腹回りに脂肪を溜め込み始めた自分には到底難しい大きな半身のひねりである。

 瞳はかっと開かれているが、口元に感情は宿っていない。次の瞬間、獲物を見つけた悦びににゅっと口角を上げるのか、それとも不覚、南無三宝、と、きつく真一文字に結ばれていくのか、どちらに転ぶかまるで予測がつかない。相手の銃口が火を噴き、骨が無残に砕かれるかもしれない。鉄道専門用語でバラストと呼ばれるらしい硬い砂利の上で血まみれとなってのたうち、靴音がやがてかたわらに近づいて来て、無防備な白い腹めがけて弾が次々に射出されるかもしれない。

 生と死を巡る闘いの一部始終を読み手に幻視させる、優れて美しい絵画と思う。死線ぎりぎりのところで開花する恋情や愛欲、酷薄な出会いと別れ、想いを裁つ際の勇壮と悲哀。石井の劇調にはそんな綱渡り的な厳しさが内在しているが、これらを凝縮させた渾身の仕上がりだ。“霊腕”という賛辞さえ脳裏にきらめく。

 以前何度か取り上げたように、石井隆の劇画のなかには西洋絵画や映画スチルから派生したカットが交じるのだが、この上体ひねりにも原形となるものがはたして有るのだろうか、と私はずっと気になっていた。これに限った事ではない。石井劇画の総てのコマや描線が暗号となって視神経に貼り付き、何を眺めても相似するものを探し求めてしまう。飢えた冬の鴉さながら、血眼になって頁を繰る狂った自分がいる。

 枕が長くなったが、この絵もまた往年の日活アクション映画(*2)のスチルに基づく。なんだ楽したのか、ずるいな、と短絡されては癪なのでまず断わっておきたいのだけど、石井の行なうこの手の引用は、絵描きの未熟な腕前を補うといった類いの抜け道ではない。この絵にしたってスチルそのものをなぞったものではない。身に纏うジーパンが下肢に食い込んで生じるたくさんの皺や、上着が遠心力でばたつく様子、その柔らかく曲線を作るひだの数々、おんなの髪の毛がさわさわと流れる辺りなど見て取れば、先の浅丘のスチルと同様にモデルを雇い、衣装や小道具を与えた上で映画スチルの俳優の姿勢や動作を再現してこれを根気よく撮影し、新たな静止画と成した上でようやく劇画製作の基礎資料としている。引用と呼ぶには手が込んだ技法が用いられている。

 写し絵ではなく“隠し絵”なのだ。寺社の木鼻や屋根に鳳凰や獅子、巴紋を飾るように、石井は劇中にこれ等映画スチルの面影を強調しながら、時に巧妙にこれを隠しながら無言で配置して、おのれの作品に精気と凄味を注ぎ込もうと尽力して見える。

 浅丘の脇に颯爽と立つのも、また、長い手足をやや折り曲げて身構える二つめのチラシの主も、どちらも赤木圭一郎(あかぎけいいちろう)である辺りにも作者の執着なり企みが窺えるところだ。思えば長編【天使のはらわた】(1978)の冒頭場面において、石井は主人公川島哲郎の妹である恵子を映画館の前に立たせ、頭上の大看板を仰がせているのだが、そこにはその小屋で上映中の作品名が並んでいた。擬似的にはめ込まれた『天使のはらわた』という映画の看板が読者の視野を覆うのだったが、この時二本立てで上映されていた他作品と設定されたのが、赤木の『霧笛が俺を呼んでいる』(1960)であった。

 『霧笛が俺を呼んでいる』は1977年にリバイバル上映されており、『天使のはらわた』の脇に置かれた絵柄の一部はその際のポスターを模写したものだ。実際の上映館にロケした資料を基に作画された可能性が高いが、それだって決して近道ではなかろう。これから連載を開始する劇画のタイトルを擬似看板にして画面に埋め込んだ石井のまなざしに、私たちは映画への強烈な憧憬と志向を読み取っていくのだけれど、実は作者の視線を縛り吸引し、ぎらぎらと乱反射して私たち読者に降りそそがれるのは、そうなることを最初から目論まれたのは、早世した俳優の鮮烈な記憶だったのかもしれない。娘が唇を尖らせ、ふーん、と見上げる角度というのも『天使のはらわた』の方ではなく、『霧笛が俺を呼んでいる』に向かっているところもきっと偶然ではない。

 石井世界とは、祭司である作者の想いが凝結した一種呪術的な大絵巻と言えるだろう。至るところに呪文が添えられていて、絵画や映画への融合が図られ、私たちの意識も無意識も絡めとって、銀幕や誌面に埋もれた暗渠へと誘いこんで行く。総てが何処かで繋がり、激しい伏流水を産み出してなだれ込み、我々を闇へと押し流す。

(*1):「パイソン357 石井隆作品集」 立風書房 1981
(*2):『男の怒りをぶちまけろ』 監督 松尾昭典 1960
(*3):『霧笛が俺を呼んでいる』 監督 山崎徳次郎 1960


 



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