2017年8月15日火曜日

“過去と抗う”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(6)


 左右に常緑樹が生い茂る細路を延々と走った先に、一軒のモーテルが建っている。世間からひどく隔絶した場処、すなわち“ひとつ家”が【魔奴】(1978)という奇譚の舞台だ。館の主人は、まだ若く容姿もそう悪くないのだが、時折訪れる利用客を急襲しては自由を奪い、惨たらしい拷問の果てに殺していく。死骸は建屋近くの底無しの沼に放り投げていくのだった。ある日、教師に脅された女子高校生が連れられて来るのだが、客室で乱暴され、抵抗の末に教師を殺害してしまう。その一部始終を隠しカメラで観ていた男は娘を軟禁し、それからは自身の犯罪行為を平然と見せると共に今に至る経緯を語り始める。物語の輪郭を記すとこんな具合になる。

 映画を観る人であればモーテルと沼の組み合わせから『サイコ』(1960)の系譜と捉えるだろうし、悪魔に取り憑かれたごとく異様な熱心さで人を殺めていく男の姿に『シャイニング』(1980)を重ねるかもしれない。また、実在の連続殺人鬼に着想を得た『悪魔のいけにえ』(1974)や『悪魔の沼』(1977)を連想するかもしれない。三作は【魔奴】発表の前の作品であるから、単純な人は石井がこれらを真似たと決めつけるだろう。(*1) 

 真似た、影響下にあると結論することで思考の回路を閉じ、次の興味なり関心に気持ちをスライドしていくことはいちばん容易いことであるが、それでは物語の延髄にまでは辿り付けない。いったい石井の内部に何があり、どうしてこんな物語が産まれ落ちたかを知るには、手を離さずに突き進むしかない。

 石井がショッキングな殺害場面を連続させる映画、例えば上に引いたトビー・フーパーの作品群やほかのカテゴリー、たとえばイタリアのジャロと呼ばれるをどう捉えて来たのか。極度の恐がりである私はフーパーもそうだけど、マリオ・バーヴァやルチオ・フルチの作品を断続的に眺めるのが精一杯であるのだが、石井世界に登場する魂の彷徨、夢魔的な時間、きわめて宗教的でありながらもありきたりな説教から分離している、そんな場面といくらか共振する感じを受けたりする。

 評論家の権藤晋が石井世界に何かしらの波動を送った映画、つまり「記憶の映画」を確認していくロングインタビューが以前あった。その折りの石井の発言を追い、リストに載った未見の映画を探しては後追いすることは無上の喜びであったが、惜しくもインタビュウは尻切れとんぼとなっている。主に邦画中心の聞き書きになっていて、凄惨な魔窟を描いた洋画についての言及はなかった気がする。無類の映画好きで興が乗れば喜んで語り続ける石井が、ほかにいくつも機会が有るなかでジャロに一切触れずに沈黙するのは、実際それほど自身の趣味とは重ならないという宣言と捉えて良いだろう。

 『血とバラ』(1961)と『血を吸うカメラ』(1961)、『吸血鬼ドラキュラ』(1958)、『サイコ』については何度も口にするところから言えば、石井隆の劇の源泉にあるのは、混沌というよりもむしろ理詰めの人間ドラマや古典的な浪漫活劇なのじゃないか。(*2) コンクリートに囲まれて冷え冷えした建屋なり大理石の重厚な採掘場で行われがちな石井描くところの血の祝祭と、これ等は一見肌合いがまるで違って見えるのだけれど、石井の映画体験の原点にして創作の起点として常に活きているのだろう。

 思えば【魔奴】の舞台となる山のモーテルは西洋の城を真似た外観(*3)であって、そこで繰り広げられる劇の、特に後段の壮絶な死闘と建屋天井の崩落の様子など見ていると『サイコ』と骨格は似ていても、むしろ近しい関係にあるのは『吸血鬼ドラキュラ』や、これまで石井は言及したことはないが、同時期に公開されたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(1960)(*4)ではないかと推察する。『アッシャー家の惨劇』で終幕に寝巻き姿の狂女が出現して暴走する様子は、石井が脚本と原作を担当した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督 池田敏春)や【20世紀伝説】(1995 画 たなか亜希夫)と二重写しにもなるから、何かしらの共振を生んだ可能性がある。

 『サイコ』ではおんなはあっという間に殺されてしまうのに対し、【魔奴】の少女は生かされ、加害者の告白を身近で聞き、最期の扉を押し開く役割を担う。それはアッシャー家に招かれた語り手(映画においてはフィリップという名を与えられた)と立ち位置が同じであって、これもまた構造的に近接する。

 『アッシャー家の惨劇』という作品が時代に何をもたらしたのか、また、石井が拘泥する『サイコ』が事象をどう描いたのか。銀幕を見つめる少年石井の胸に何を撃ち込んだのか、透かし見るには私はやや齢が若過ぎる。なにか良いテキストはないかと物色したところ、ジャンコヴィックという人の評論書が見つかった。スタイルや描写の烈しさといった点でなく、内包されたテーマに絞って考察を極めた識者の『アッシャー家の惨劇』と『サイコ』に関する言葉をここで書き写したい。これは【魔奴】に限らず、石井の劇のスクリュー軸の一本を上手く言い当てているように思う。

「人物たちはしばしば、抑圧的な過去によって麻痺させられており、またそこに飲み込まれそうになってもいる。」「過去はその人物を取り巻く環境にも、その人物の心理にも影響を及ぼす。人格は自らが産み出した力によって抑圧されており、それによって絶えず消し去られ、抹消されそうになっている。」「『アッシャー家』において、主人公は選択によって自分の運命が決定できるとか、意志は必ず勝利すると思い込んでいるが、そのこと自体が映画のカタストロフをもたらし始めているのである。」(*5)

「『サイコ』においては怪物はもはや社会の外部において産み出されるのではなく、社会の根源的制度とされている家族のなかから生まれてくる」「怪物を産み出すのは「異常さ」ではなく「正常さ」なのだ」(*6)

 フィクションに限ったことではない。私たちを常日頃つよく苛み、揉みくちゃにする普遍的な記憶や血縁の問題が綴られている。吸血鬼映画に心酔し、化け猫映画を憧憬しつつもなかなかそれの具現に手を染めないで来た石井のこころの奥には、誰に教わった訳でもないのにこの“家族のなかからこそ怪物は生まれる”という方程式が根付いたのではないか。私の知る限りでは石井が可視化された「妖怪」を描いたのは、アンドロイド同士の抗争を描いた【デッド・ニュー・レイコ】(1990)を除けば初期のおんな殺し屋もののエピソードのひとつぐらいであって、ほとんどは「怪物じみた人間」を描くにとどまる。

 超常現象の描き方にしても具体的に立ち現われるのではなく、疾病による高熱、思い込み、異常な執心が生み出した幻影としての解釈余地を常に添えていく辺り、乱暴な表現を使えば頑固で地続きの世界観を守っているのが石井隆という作家である。

 石井は【魔奴】においてハリボテ感のあるモーテルの外観を逆手に取り、現実から遊離した、思い切り観念的で突出した話を紡ごうと挑んだのだが、そこで繰り広げられるのは荒唐無稽の皮をかぶってはいるが人間なら誰でもが背負う確率がある呪わしき運命とそれに対する懸命な抵抗の顛末であった。近親者を死に追いやった男が親の遺産であるモーテルにて他人を巻き込みながらやむくもに奮戦し、じりじりと自滅に追い込まれていく行程が描かれていて、近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)や『甘い鞭』(2013)とも連結している。

(*1): サイコ Psycho 監督 アルフレッド・ヒッチコック 1960
シャイニング The Shining 監督 スタンリー・キューブリック 1980
悪魔のいけにえ The Texas Chainsaw Massacre  監督 トビー・フーパー 1974
悪魔の沼 Eaten Alive 監督 トビー・フーパー 1977
(*2): 血とバラ Et Mourir de Plaisir  監督 ロジェ・ヴァディム 1961
血を吸うカメラ Peeping Tom 監督 マイケル・パウエル 1961
吸血鬼ドラキュラ Dracula 監督 テレンス・フィッシャー 1958
(*3):目黒エンペラーに代表される西洋の城を模したもの。石井はこの建物をいつ取材したか不明であるが、【魔奴】に先駆けて【赤い滴り】(1975)にて採用している。【魔奴】において石井はこの野原にたたずむ建屋をそっくり森の奥へと移築し、ドラキュラ伯爵の城のような多弁な存在へと造り替えた。前景である人物劇と癒着し切り離せない存在として城があり、森が立ち現れている。風景画家としての躍進が両者の間で確認出来る。
(*4):アッシャー家の惨劇 House of Usher  監督 ロジャー・コーマン 1960 
(*5):「恐怖の臨界―ホラーの政治学」 マーク ジャンコヴィック 青弓社 1997  125-126頁
(*6): 同 128頁 ここはジャンコヴィックが他の評論家の意見を紹介したもので、続けざまに「異常さ」「正常さ」について一考を促している。





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