2017年8月13日日曜日

“不自然な遊泳”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(5)


 インタビュウに答える石井の言で興味深いのは、過去見聞した小説や映画、漫画といったもろもろの記憶が創作上の台詞や面影の生成に幾らか関わっている点がある。大盤振る舞い的にそれ等の題名を順次挙げていく件(くだり)があって、意外な連結に驚かされる。模写とかオマージュといった明瞭な意図を孕んだものではなく、無意識的に挿し込まれていくところがあって、また、源流の面影そのままではないから気付かないままの読者が圧倒的に多い。(*1) 

 劇画のコマなり映画のシーンで芽吹き、蔦(つた)を伸ばして色調を転換させ、秀抜なアクセントを産んでいくにしても、其処にいちいち立ち止まって検分する者はいないのだし、実際、他者からのイメージの移植自体が劇の心髄とはなっていないから、あえて取り上げる必要も無い。ただ、この場は石井の作劇法への肉薄を主眼としているので、簡単に捨て置くことは出来ない。

 【魔奴】(1978)について石井が公の場で語ったことは無い以上、これから書く事柄はいずれも推量に過ぎないのだが、この極めて烈しい顔立ちの一篇にも〝記憶の映画”の薄片は視止められるように思う。迂回する形とはなるが、その辺りについても随時触れながら進んでいきたい。作家の魂の一分野を構成するものは何かを考え、五感を鍛えることは石井の創作世界を読み解く上で有効だろう。

 さて、【魔奴】という作品は世の中にふたつある。最初に連載されたのは漫画雑誌ではなく、加虐行為(サディズム)と被虐行為(マゾヒズム)を主題においた小ぶりの専門誌であった。(*2)  後日、大幅に加筆された上で「漫画タッチ」(白夜書房)誌上にて再度連載されたのだったが、両者の間には微妙な段差があって混乱を来たしそうだ。「タッチ」版は終幕部分で大きく舵を切り直しており、物語全体から放たれる熱の種類が違っている。映画のレイティングシステムにも似た表現の自己規制がはたらいたものか、作家の内部で何かしらの心情的変化が生じたものか、その辺の事情は全く私たちには知らされていない。どちらが良いとか悪いではなく、まるで別個の作品と捉えて構わないと私は考えるので、両者の連結を思考から一旦はずし、今は先に世に出た方の【魔奴】にのみ話を絞り込んでいく。

 連載号を古書店で買い求めたのは発行されてからかなり経ってからだし、そもそも私にはその手の嗜虐的性向のセンスがまるで無い。この劇画が当時の読者の目にどう映ったものかを語る資格はないのだけれど、いくら素養と経験値が乏しい凡人とはいえ、頁を広げれば異形の万華鏡が無尽蔵に展開される訳である。真夜中の熱帯植物園に踏み込んだような具合であり、それら奇妙で妖しげな植生なり花弁をつらつら眺め、息を詰まらせながら散策を続けるうちに石井の【魔奴】の立ち位置がどんなものかは何となく分かってくるのだし、他の掲載物とは相当に肌合いを異にしているのは直ぐに了解できた。

 足を深く突っ込んでしまうと底なし沼と化して身動きが難しくなりそうだから、さらりと簡潔にまとめてしまいたいところだが、石井の【魔奴】は趣味の域を超えた殺戮劇であって、主人公の加虐行為に歯止めがかからない。

 わたしには学者肌の知人がひとりいて、嗜虐的性向に関わる文化につき日々こつこつと調べては丹念に咀嚼し、自身の血肉と魂の糧にしていく熱心な人なのだが、先日書いておられた文章によれば、日本人の性文化の一画を占め、日陰ながらもしっかりと根付いたその紅蓮の花は、“拷問”ではなく“折檻”という種子が発芽した末のものという。言われてみれば、なるほどそんな感じはする。縛る方にも組み敷かれる側にも愛情といたわりが層を作り、快楽の高みをひたすら模索していく。非日常の時間が過ぎれば普段の生活が待つことを最初から受け入れていて、帰還のために後遺症を残してはならず、縄や鞭の痕跡は着衣の裏に上手に隠れなければいけない。下着に触れる薄桃色の痣だけが時折うずき、そうっと其処だけで息づくようであらねばならない。

 ところが、石井の【魔奴】に描かれる責め苦というのは、後年の映画『花と蛇』(2004)や『甘い鞭』(2013)とも通底するのだが、生死の境界を行きつ戻りつする過酷な拷問なのであり、まったく容赦がない処刑行為そのものであって、捕獲された男女は屠畜場さながらつぎつぎに殺害されていき、加虐行為者の男はそこに感情を微塵も差し込まれない事をかえって悦ぶが如きだ。読んでいて暗然とし眉を曇らすばかりであって、これは私たちが密かに口にするSMとは別次元の生死を賭けた水際の物語となっている。

 ならば【魔奴】は日本ではなく西洋文化の色に染まった無国籍劇であるかと言えば、どうもそれともまるで違う。よく言われるように日本のそれは盆栽に代表される植木の血脈に置かれ、西洋のそれは馬の調教の延長に当たる。『花と蛇』や『甘い鞭』は、そして【魔奴】には矯正も訓練も支配の思惑もなく、無計画で刹那的な時間がどこまでも繰り返されてしまう。さながら気密室に人を閉じ込め、接続なったボンベのバルブを開いて内圧を極限まで上げていくような、息苦しくも無慈悲な時間だけがのたうっていく。

 石井の体質のなかに血に極度に酩酊するところがあって、想像がエスカレートして止まらないのだろうか。石井が嗜虐的性向を描くと、どうしても血を見ずにはおかないのか。そんな事はない。当時石井は【魔奴】掲載誌以外にも同様趣味の雑誌に数多くのイラストを寄せているし、小説の挿絵も提供している。そこにあるのは一種伝統的な責め絵の数々であり、石井はプロフェッショナリズムでこれを見事にこなしている。掲載誌において【魔奴】だけが“不自然”だったのだ。季節と天候に逆らい、白波をばちゃばちゃと蹴立てる遊泳者の孤影がある。

 これを読む人の多くはきっと頷いてくれるように思うが、その“不自然さ”において【魔奴】は極めて石井隆らしい作家性を帯びた作品となっている。何がどう描かれているかを書き出すことで、作家の特性が垣間見られる貴重な作品ではないかと思う。

(*1):石井の劇画のなかには特定の作家、具体的にはつげ義春へのあきらかな尊敬や愛情を基盤として描かれた節のある数編が交じっている。しかし、ほとんどの作品においては記憶の薄片がコマに注入されたとしても、それは残像か一瞬の閃光の如きものであって作品の流れを大きく左右しない。
(*2):「SMセレクト」 東京三世社

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