2015年11月1日日曜日

“時間旅行機” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(9)~


(注意 物語の結末に触れています)

 一ヶ月に渡って、石井隆の『GONINサーガ』(2015)を噛み砕いてきた。
 
 群像劇なので複数の視座を持ち、それ所以の混沌と足踏みがあるにしても、石井らしい決着を各パーツでつけた巧みさ、緻密さを最初に思った。濡れた銀幕に、村木的なもの、名美的なものが乱反射して、どこに焦点を絞っても独特の景色に仕上がっている。また、不可視的領域がそ知らぬ顔で組み込んであり、シーン毎に不穏な残り香がある。幾重にも絵の具を画布に塗り込む多層感のある描写であって、画家石井隆の健在ぶりを示していた。観客の多くは不可視部分に気付かず、もやもやした興奮と不安を抱えながら過ごす羽目になるだろうが、それも含めて石井の狙いだろうから嬉しいばかりだ。

 旧作で退治された悪党を、【天使のはらわた】(1978)の川島哲郎に準じた存在、自身の希望というでもなく、生活のためか、それとも人間関係に縛られてか、いつしか組織の中で生きていくしかなかった普通の男と捉え直し、陰画から陽画に一気に反転してみせたのも面白かった。これまで書いた内容をまとめると、そんな具合になるか。

 探せばいくらだって書ける。たとえば、闇と光のコントラスト配分を考慮した結果なのだろう、暗い領域に置いてけぼりを喰らったようなヤクザ組織の面子が、揃いも揃って黒々と単色で塗り込まれているのも愉快だった。(もちろん役柄としてだけど)獰猛で享楽的、知性よりも本能を強調した面構え。菅田俊(すがたしゅん)、井坂俊哉(いさかしゅんや)、屋敷紘子たちは、おのれの腹の奥底まで墨一色に染め上げてみせ、石井の思惑によく応えた。銃撃をまともに受け、痙攣するごとく弾かれ壁に吹き飛び、どさりと地べたに叩き付けられていく身体の動きに陶然としながらも、観ていて全く後ろ髪を引かれないのが素敵だった。誰が彼ら(役どころの彼ら)に家族や係累のあることを想像しようか。旧作『GONIN』(1995)のような灰色の領域を増やせば、運命悲劇の連鎖は永遠に終わらなくなってしまう。彼らは『GONINサーガ』の黒い縁取りとなり、式典を最期まで支え切って健気だ。

 ひと呑みにして消化出来るはずがなく、反芻の末にようやっと血肉となるのが石井作品だ。筆を置く気は毛頭ないけれど、人間ってやつは何時死んでも不思議はない。区切りは大切だろう。ここに至っては封印を解いて構わないと思うから、終幕の描写に少しだけ触れ、現時点での感想を閉じよう。

 『GONIN』と『GONINサーガ』のふたつの物語を俯瞰した時、そこに1995年と2014年という二つの年数が立ち上がるのだが、よくよく見ればその航路上にはもう一箇所、不自然な停泊港が視止められるのだった。それは井上晴美が演じる未亡人の営む酒場の装飾にもあるように2000年の世紀の節目であった。どうしてこの2000年に物語は立ち寄る必要があったのか、石井隆を熱心に読む者は思いを巡らして良いだろう。

 2000年に降り立つことで、ヤクザの遺児役の東出昌大と桐谷健太のふたりは、物語設定上、二十歳前という難しい年齢を演じなければならなかった。この中継地点を踏まない方がどれだけ語り口は滑らかになったか分からない。どうして石井はここに立ち寄ったのか。それは、登場する人物の誰もが特別な響きを持った2000年という年を跨いで生きてきたのであり、そんな華やかな世間の足取りの裏側で大量殺人の関係者という陰惨なレッテルを貼られ、俯いて歩かざるを得なかった苦境や怨憎を描きたかった──訳ではないだろう。また、『フリーズ・ミー』(2000)の主演女優である井上晴美の頭上にそれを飾り、敬意を表した──訳でもおそらくはない。

 劇映画という手段と石井隆の意思がその年にカメラを固定し、雨の中で佇み、花を手向けている相手は一体誰であるのか。私たちはそこを強く意識して良いように思うし、石井の願うものが私の憶測通りであるならば、石井は映画という手段を時間旅行機(タイムマシン)に準じたものと捉えている。その意識を踏まえて作られた『GONINサーガ』という作品には、当然ながら時間流を遡って何事かを為し得ようとする強い視線が託される。

 旧作『GONIN』と今作との間には血脈があり、生殖と成長の日々が連なり、それは生き物の宿命として逆戻りを決して許されない絶対の下降ベクトルであるのだが、映画はそれを悠々と逆行してみせ、その上で成し遂げられる事だってあるのだ、と、石井はどうやら小声でつぶやいている。想いを馳せる特定の日々に立ち戻ることができる、そんな奇蹟を歌って見える。

 石井は『GONIN』の修正を試みたのではないか。いや、もはや修正の施せぬ『GONIN』に肉付けして、新作に取り込み、現在到達した自身の境地に完全に合致した作品として連結し直そうとしている。もっと具体的に言えば、万代樹彦(ばんだいみきひこ 佐藤浩市)の村木化を図って見える。冒頭のナレーションと劇の終わり方が示すように、そもそも『GONINサーガ』とは、万代樹彦について再考をうながす物語であろう。

 議論百出を覚悟して書けば、『GONIN』は石井の作品群の中にあっては異分子とまでは言わないが、色彩的に隔たったところがあったのだし、2000年以前の作品の典型として現在の石井の作風とは馴染まない箇所がある。先日、遂に石井は『GONIN』の三屋純一(本木雅弘)が土屋名美の系譜に当たり、『GONIN』の主軸に村木と名美の物語が置かれていたことを開示したのだったが、結果的に『GONIN』は石井世界とは別種のバイオレンスアクション劇と世間に見なされ、独自のファン層を築いて来たのだった。石井世界の稜線に在ることは違いないのだが、やや亀裂を生じて見える。

 先の色彩コントラストの例えを再度持ち出せば、石井は『GONINサーガ』を用いて、白い印象だった万代樹彦を黒く塗りつぶすことに努め、独り歩きしたイメージの解体を行なっており、曖昧なこれまでの印象を思い切って払拭している。元ミュージシャンで肝が据わり、実業家の才覚もあるのだが、たまたま景気が悪かった、バブル経済の罠に落ちた不運なヒーロー、という従来の仮面を剥ぎ取り、その代わりに“実力もなく、ひとりよがりで甲斐性のない、愛する家族を不幸に落とし込む男”、そして、“愛する者を駄目にした後で血でも吐くような気持ちで懺悔し続ける”村木哲郎像へと引きずり落としている。そうする事で『GONIN』の他の“村木たち”と同様の立ち位置に戻している。

 実際、『GONINサーガ』を覗き穴にして冷静に振り返ってみれば、万代樹彦という男は何をやっただろう。芸能界にデビューして、既に同世代から人気を博する年頃の娘がいるにもかかわらず、また、その娘が暴力団の芸能部門に捕り込まれつつあるのを知ってか知らずか、その辺は判然としないのだけど、どちらにしても愚かな発想しかひり出せず、一発逆転のホームランばかりを狙ってぶんぶんとバットを振り回しているのだった。結果的に親思いの娘を、生きたままで地獄に蹴落としている。万代のイメージは完全に倒立した。地に墜ちた。そして、ようやく地上に降り立って歩き出したのだった。

 『GONIN』の“村木たち”は、愛する者を巻き込み、苦境や死に至らしめる点で道程をひとつにしている。氷頭(根津甚八)もジミー(椎名桔平)も、そして今や万代さえもやっている事は狂気の会社員荻原(竹中直人)とそうは違わない。酷い話には違いないのだが、多かれ少なかれ男が生きて家族を持つという事はそれに近しい景色を内包するものだ。大概の男はこれを薄っすらと予感し、身震いしながら日常を足掻いている。

 以前この場に書いたように、2000年以前の石井の物語は死をもってばっさりと流れを裁ち切って清算する内容が多かった。散華を劇的に描き、観客はこれを涙して受け止めた。けれど、『花と蛇』(2004)以降の石井はもう少し慎重に糸を紡ごうとして見える。万代を無軌道的に死に急ぐ独身者ではなく、黒い尾を引きながらも生活に追われる“生きた男”に今更ながら戻したかったのではないか。神格化した万代像と決別し、私たちの背丈に近づけ、『GONIN』を2015年の一皮剥けた石井世界に立ち返らせている。過去に遡上し、誤ったイメージを修正することで、かえって万代という男の身を焼く業火は勢い付き、苦悩がいや増すに違いないのに、さらにそれは振り返って作者自身をも苛むこととなるに違いないのに、火鉢に腕を突っ込んで木炭の向きを変える具合にして石井はそれを行っていく。反吐を吐き、汗を流しながらも過去と今を手探っている作家が見える。(*1)

 先日、フィンランドの女流画家ヘレン・シャルフベック Helene Schjerfbeck の個展を観る機会があったのだけど、死を目前にしながらも鏡越しの自己に向き合い、消滅に至る過程すらキャンバスに刻んでいた事に圧倒された。今回の石井の姿勢にも非常に似たようなものを感じている。生業である以上にひたすら想いを注ぎ、自身の苦悩と歓びの総体を作品に盛り込んでいる。ファンを楽しませる工夫をすると同時に、ある時はファンを敵に回してでも自身の魂に沿った加筆修正に挑んで、全く逃げようとしない。孤高を怖れずに突き進んでおり、その闘志にこちらの胸が焼け焦げる程だ。

 スター映画なのだと石井は語り、確かに『GONINサーガ』そうなっているのだが、同時に紛うかたなく石井隆の絵画であり、その筆致や創作意図を探る旅でもある。死屍累々の幕引きを迎えるが、作者石井の生きた営みが押し寄せるのであり、観る悦びの質量は計り知れない。それこそがリアルな、生きる糧になり得る物語だと信じる。

 わたしは随分と洗われた気分だ。耳を澄ますと、今も雨だれの音は続いている。

(*1):人によっては『GONIN』旧作の破壊とも受け取める今回の万代像の再生作業であるが、石井の劇画作歴が加筆修正の連続だった点をここで改めて思い出してみれば、それほど逸脱した行為とは思われないし、むしろ其処にこそ“石井隆”の真剣を感じる。

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