2015年11月1日日曜日

“大きな、不似合いな” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(8)~


(注意 物語の内容に触れています)

 物語の構造や撮影の技巧を裁定するのでなく、知識の吸収をするでもなく、また、現実からの逃避でもない、いわば魂の糧を得るために真摯に向き合う、そんな側面が映画の鑑賞には混じっていく。魂というものは各人の生い立ちや記憶と密着する訳だから、千差万別が当たり前であって、そこで生じる化学反応や結晶化は常にばらばらであろうし、意見が分岐するのは致し方ないことだ。何が当人の内部で起きたかを書き留める行為は、だから万人を説得する論理性を持たず、極私的でささやかな感想文の域を出ない。大概は評論の名には値しない。

 この場処に“試論”と銘打ち、過去の挿画や劇画を含む作品や他の作家の映画などを連結させて書き綴っていながら、これは拙い感想文でしかなく、名前負けも甚だしいと心から恥じて苦しくなる時がある。映画史を語れるほどは古い作品を観てないのだし、劇場に足を運ぶ際にはかなり偏った選択をしている。映画や劇画全般のどの位置に石井隆が居るか、その辺りを解説したり縫合する力がない。

 権藤晋や山根貞男が石井隆論の決定版的な大冊を出してくれないかという切望は止まず、いや、彼らでなくても良いのだ、新進のドキュメンタリー作家や脚本家が古今東西の文芸や映画作品を引き合いに出しながら、石井隆という作家の実像に切り込んでくれないかと夢見るのだけれど、売り物にならなければ出版社は動くまいから、いまはどうにも仕方がない。笑われようがけなされようが自分なりの心模様を下手な表現でトレースしながら、膨大にして密度ある作品群を地道に咀嚼していくだけだ。

 再び『GONINサーガ』(2015)の感想に戻るが、私の胸をひどく打った場面がひとつ有って、それは屋内に置かれた調度品や装飾なのだった。式根親子(テリー伊藤、安藤政信)の行き来する事務所や妾宅の壁を飾るジョン・マーティン John Martinの絵画「The Great Day of His Wrath」を今は言いたいのではなくって、瞳に刺さったのは同じ親子でも大越家の方の住居だった。十九年前の事件で殺された組員の遺された妻、加津子(りりぃ)と息子の大輔(桐谷健太)は、ワンルームの小さなマンションで夜露をしのいでいる。そこでの展開は無いに等しく、物語の波形に全く影響しないから大概の人は気にも留めない事だろう。どのような調度であったか、石井の原作本(*1)を引けばこんな感じだ。

賃貸アパートの1DKの狭く暗い部屋に入って来る。5年前、何部屋もあったマンションを引っ越す際に詰め込み、それから何度引っ越しを繰り返したか、面倒になって仕舞ったままだが、『オヤジのスーツ』『オヤジの着物』等と殴り書きした段ボール箱が収納する場所も持たずに未だに所狭しと積まれている。父の大越が使っていた大きなベッドの枕元には大きな仏壇と大越の遺影が飾られ、この部屋には不似合いな鎧兜(よろいかぶと)が鎮座している。部屋の隅には綻(ほころ)びた赤い皮のサンドバッグが吊られ、厚化粧をした老いた母がテレビを付けっ放しでロッキングチェアで眠っている。(131頁)

「お出かけだ。化粧するんだろう?早くしな」
そう言われて母の加津子は楽しそうにドレッサーで厚化粧の真っ最中だ。(249頁)

平岡が雑然と物で溢れる狭い部屋に立ち尽くしながらしんみりと言う。
「これが元組長の部屋なんですか……」(324頁 この場面は映画ではカットされている)

 鎧兜は確認できなかったのだけど、窓の側に腰の高さ程もある大きな素焼きの壺がひとつ、いや、二つだったか置かれていたように記憶している。映画では合わせても三十秒もあるか無いかの短い場面であるのだが、胸の奥で拡散して実に痛ましく響いた。

 仕事場に適応し、齢相応に組織を束ねて部下の信任も厚く、家族にも恵まれていくに従い、男は身の丈にあった巣作りを行なうようになる。油断ではなく、安全な環境を得ようと本能が強く後押しするのであって、時には借金を重ねるリスクを負ってまで住まいを整えよう、大きくしようと躍起になる。そうして、組織内での失脚や会社の倒産、病臥や事故死、社会的な失墜等によってこれが維持し切れなくなるとき、その果てにどのような暮らしが待つかを、映画の中の狭い部屋が的確に描いていた。

 承知の通り、住まいの甲乙は床面積の比較で単純に決まるものではない。居住する人の数と構成、家計、社会との関わり方に応じて善し悪しは固まってくるものだから、“何部屋もあったマンション”がワンルームに転じた点を痛ましい、不幸だ、と言っているのではない。“収納する場所も持たずに所狭しと積まれ”、“大きな”家具や調度品が“不似合いな”まま押し込まれているのがどうにも哀切で堪らないのだ。これは実際に、身近に、そういう目に遭った係累や知人を持たないと具現化しにくいものであって、石井もしくは美術担当者の至近距離に不幸な現実があった証だろう。

 人の一生には誰も想像しえない転機があって、懸命に拡張させてきた住まいを根こそぎ奪われる、そんな深刻な局面に見舞われる事がある。避けがたい波濤にざぶりと洗われたとき、時間も、手持ちの余裕もなく、人手も欠いた私たちは、身の回りの家具や衣服を必死の思いで運び出すより術がないのだし、一度そうして避難先に収まってしまった必需品というのは処分や整理の機会が訪れないまま、多くが生き長らえて所有者と共に漂流を続けていく。

 物を捨てるに金と労力がかかる時代であるし、家具や置き物のそれぞれに思い出が色濃く刻まれてもいる。同居する全員の気持ちが一致しないと手放せない性格の物だから、互いに衝突を回避しているうちに時間ばかりが経っていく。いつしか床面に根付いたような具合となって、不似合いに大きな彼らはいよいよ壁を埋め尽くし、空間を占拠してしまうのだけど、膝を打つような方策は見当たらなくって、保留状態でそっと気持ちに蓋をする以外に道はない。

 『GONINサーガ』は思春期前に父親を失った子供たちを主人公とする一種の青春映画だけれど、根底に置かれてあるのは中年男を長(おさ)とする家に突如不幸が襲いかかり、環境を暴力的に変質させていく禍々しくも普遍的で、リアル過ぎる人生の実相だ。胃が痛くなるような日常の硬直した面立ち、生きながら化石となってしまう苦しさだ。作り手たちの追悔を寄り添わせた、生々しい困窮が二重写しに描かれている。
 
(*1):「GONIN サーガ」 石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015 文中の括弧内は引用頁を指す。

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